綾彦が彼女とであったのは、海外が主な仕事場である綾彦の師事している写真家が日本へ仕事へやってきた日のことだった。


「さてと、今日の仕事は日本だがお前はモデルをしなくていいぞー」
「え? まじっすか?」
 永瀬河の一言が意外で綾彦は素っ頓狂な声を出した。
 この日本で自分を使わないとは思わなかったのだ。それは聞きようによってはひどく傲慢なように聞こえるが、彼の専属である綾彦が使われないのは風景写真のときだけだったから驚きを隠せない。その写真を使わないときはあるけれど、綾彦が使われなかった場所は本当に数えるほどしかない。
 日本ではスタジオをとっていると聞かされていたので風景写真ではまずない。だから最低でもためし撮りぐらいはさせられるだろうと思っていた綾彦にとってそれは意外な申し出だった。
「めずらしいっすね。あんたが俺を使わないなんて」
 いつもは馬車馬のように扱うのに、綾彦はいたずらっ子の笑みを浮かべる。
 皮肉そうに口角を上げて、心底面白そうなものを探しているような。
 そんな笑み。
 永瀬河はふっと笑って綾彦を見やる。モデル顔負けの魅力的すぎる笑み。それはきっと夢をかなえた男独特のものだろう。
 自信にあふれ、自分の魅力もすべて分かった男の笑み。
 きっと綾彦が出そうとおもっても出せない部類の。
「うぬぼれるな、若造。俺が使ってるんじゃなくて、使ってやってるんだよ。モデルくらいしかやれないじゃねーか」
 いかにも見下した言葉だけれど、永瀬河の顔にはただ普通の顔で当たり前のことだといわれているような気がして。
 まさに自分との違いを思い知らされるようだと綾彦は思う。
「まあ、いいっすけどね。じゃあ、俺は雑用専門?」
「いや、お前は世話係。今回のモデルの世話全般」
 今回はどんなモデルを使うんだろう。世話なんてマネージャーがやるもんじゃないだろうか。
 まあ、施設育ちだった綾彦は意外にも世話好きするほうだったら異論を唱えるほど不満ではなかったけれど。
 ふに落ちない仕事に綾彦は首をかしげた。
(まあ、今回は佐々木さんもいないことだしいいか)
 そんな軽い気持ちで、車に乗り込んだ。
 今回は飛行機に乗った直後に仕事場に急行だといわれたから、ロクに睡眠もとってない。
 飛行機の中ではなんとなく足が宙に浮いている気分になって眠れない。まあ、これは綾彦が飛行機慣れしていないこともあるけれど。
 だからこそ、ここで睡眠をとっておかなければ後でへばってしまう。
 綾彦は車が発進したのを確認して、ゆったりと目をつぶる。それが深い眠りになるまで時間はかからなかった。


「おい、綾。ついたぞ、先生ももう降りたんだからお前が降りなくてどうするよ」
 先輩に当たる近藤に起こされた綾彦は眠り眼をこすった。
「あ、すいません。……って、ここって……」
 寝ぼけた頭を覚まそうと外を見てみると、そこには立派なお屋敷があった。
 いや、立派なお屋敷はそこらじゅうに立っているようだから別にそこが変なわけじゃないと思う。
 けれど、ここが今回の仕事場だというのは変だろう。
 明らかに高級住宅街というものなのだから。
「これって何かの趣向ですか?」
 綾彦が近藤にそう聞くと、近藤は呆れたようにため息をついた。
「何だ、お前先生に説明されなかったのか?」
 前回の撮影では別行動だった近藤は事前に知っていたらしいけれど、綾彦にとってはどう考えても寝耳に水。
 今回自分を使わないということさえ、ついさっき教えてもらったばかりなのだから。
「まあ、先生に説明を求めちゃいけないわな」
 あの人の写真はすごいけれど、非常識さはそれ以上にすごい。それが近藤の口癖だった。
 綾彦よりも付き合いの長い近藤にさえそういわれるくらい、永瀬河の行動は破天荒なことが多い。
 それくらいのほうが芸術家としては成功するのかもしれないけれど。
「今回はここの一人娘さんをモデルにするんだよ。というか、ここが依頼主でもあるんだけれどね」
「よく師匠がそれをオッケーしましたね」
 よく金持ちの家ではプロのカメラマンを使って写真撮影するらしいけど、永瀬河がそういう依頼を受けることはあまりない。
 唯一例外は永瀬河に綾彦を紹介したあの赤坂嬢の家だけれど、それだってほとんど家族写真というよりは雑誌の写真だ。
 だからそういうのは好きじゃないのかと思っていたけれど。
「まあ、今回は特別ってことじゃないか? なんでもここの主人と先生は腐れ縁という奴らしくてね」
「まあ、それは主人さんがお気の毒」
「それ、本人の前で言うなよ」
 呆れたように笑う近藤に綾彦はにやっと笑った。
 意外といったら意外だけれど、永瀬河がいいならいいだろうと気楽に考えていた。
 どうせ永瀬河の気まぐれだと疑わずに。
「どうした、早く入ってこい」
 そう、近藤に促されて綾彦は伸びをしながら、そのお屋敷に入っていった。


「こ、こんにちは」
 震える声で挨拶をされてめんを食らう。
 お嬢様というと亜里沙か李歩を思い出すため、どちらともともタイプが違ってギャップをかんじたのだ。
 どちらか言うとおとなしそうなどこにでもいそうな女の子。
 それが綾彦にとってそのこの第一印象だった。
「俺は浅川 綾彦。綾彦でいいよ。あんたは?」
 依頼主になんていう口の利き方だと斗海には怒られてしまいそうだと思いながらも、緊張をほぐすためにラフな話し方をする。
 そのこは恐る恐るといったように綾彦と目をあわす。
「種雅 まひるです、よろしくお願いします」
 あわててといったように頭を下げるまひるになんとなく意表をつかれた。
 なにをそんなに怯えているのだろうと首を傾げたくなる。
 李歩も最初は怯えていたようだけれど、それでもこんなふうではなかった。
 それともあのときのように、自分が怯えさせるようなことしただろうかと綾彦は首をひねる。
 別にそんな問題のある行動はしてないと思うけど。
「まああんたの世話係になるんだから、気楽にいこうぜ」
 そういって綾彦はできる限り優しく微笑んだ。
 それをみて、やっとまひるは少しリラックスしたように力が抜けた。
 それを観て、綾彦もやっと力が抜けた気がした。
 別に特別というようなもんじゃないけれど、どことなく表情が可愛いなと思いながら頭をなでた。
 これはもう癖のようなものなのかもしれない。
 なんとなく、弱っていたり迷っていたりする子供を見ると頭をなでたくなる。
 安心していいよと、伝えたいのかもしれないね。
 きっとあんたはずっとそうされたいんじゃない?
 斗海に言われた言葉がよみがえる。別に親を恨んでいるわけじゃないし、寂しかったと嘆く気はないけれど。
 心のどこかのそういう想いがあるのかもしれないと思った。
 恵まれているほうだと自分では思っているけれど、それでもどこかでそれを羨む心があるのかもしれないと。
 無条件で愛される家族というものにあこがれているのかもしれないと。
 きっとまひるも愛されているのだろうと綾彦は思う。愛されているからこそ、こんなにも優しい顔になるのだと思う。
「ありがとうございます。私のわがままに付き合ってくれて……」
 だけど、そういって笑う顔にはまったく翳りがない。
(ここまでなのも珍しいけどね)
 まるで害するものを知らないような顔。
 それを守りたいと思ったのは、きっと保護欲からだと綾彦は思った。
 本当に自分は小さいものと幼いものに弱いなと苦笑しながら、頭をなでた。
「まあ、俺達はそれが仕事だから遠慮すんな。どうせなら可愛い顔しろよ。写真はいつまでも残るものだから」
 真昼はそれを聞いて、なぜか儚げに微笑んだ。
 さっきまでとは少し違う表情に、綾彦は戸惑いを覚えたけれど何も言わない。
 ただ、見なかったふりをしただけ。
 その笑みに意味があるなんて思っていなかった。真実を知るまでは。


 撮影の準備はどんどん進んでいった。といっても正規のスタジオではないためいろいろと手間はかかる。
 その間、まひるはただ座ってその作業を見ていた。
「面白いか?」
 綾彦はわざわざ持ってきてもらって飲み物をまひるに渡す。
 それを受け取りながら曖昧な笑みを浮かべるまひるに違和感を覚えながらも、綾彦は何も言わない。
 この年頃はいろいろと他人にいえない想いがあるのだと思う。
「ねえ、綾さん」
 まひるは綾彦に声をかけてきた。
「綾さんはいろんなところにいっているのでしょう? その話をしてもらえませんか?」
 子供のように目を輝かせるまひるに、綾彦は苦笑を隠せない。
 そうだ、まひるは子供のうちにはいるのだ。甘えるのがうまくて、大人の階段を登ろうとしている時期の子供に。
 だから大人の顔を見せるけれど、それでもやはり子供なのだ。
「いいけど、どんなことが聞きたい?」
 まひるは少し考えた後、にやりと笑ってこういった。
「何でもいいですよ。面白いと思ったこと何でも」
 その笑みは亜里沙並みの二面性を垣間見た気がして、思わずぷっと吹き出してしまった。
 緊張が解けた人形はまるで抜け殻から飛び出す蝶のようにまったく違う一面を見せる。
 今まであったお嬢様と呼ばれる生き物は皆そうだなと綾彦は思う。
 李歩はおとなしそうでまるで子供だと思っていたのに、しっかりと自己主張を持った恋をしていてちゃんとした女だった。。
 亜里沙は一見パーフェクトなお嬢様に見えて、性格はものすごかった。
「一番面白そうなことね……、お前はどんなことなわけ?」
 綾彦がそう聞くと、まひるは少し考えるように首をひねった。そうすると、結構幼く見えるのに気づいてほほえましくなる。
「そうですねー、今一番楽しいのは友達とのおしゃべり? とかテレビ? とかですかね?」
 そう考えると結構つまらない人生ですね〜、と笑いながら話すまひるのあたまに無遠慮に綾彦の手がのせられる。
「いいんじゃねーの? それがお前の楽しみなんだし」
「アー、子ども扱いしましたね! 17にもなるレディーに失礼ですよ」
 笑いながらそういうから、思わず綾彦も笑ってしまう。
 本当にお嬢様らしくない奴だと。けれど言動とのギャップが生まれそうなくらい優雅な動作で育ちのよさがあらわされている。
 本当にアンバランスなお嬢様。
 けれどそのアンバランスさが綾彦には目新しく映って、それもまたおもしろい。
 なによりも一瞬も変化を止めない表情の豊かさが面白い。
 最初のおとなしそうなイメージはとっくに払拭されていた。


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