「そうだな、赤坂のお嬢様とその義姉になる奴のおかげでここにいるんだよ、俺は」
 まひるにそう話すと、まひるの目が輝きを強めた。
 未知の世界への憧れ。きっと綾彦にもそういう目をしていた時期があったと思う。
 たとえば初めてカメラマンという仕事に触れたとき。
 たとえば初めてカメラの前に立ったとき。
 綾彦自身もそういう目をしていた。好奇心と羨望の光をもった目を。
「すごいですね! 綾さんは本当にカメラが好きなんですね……いいなぁ」
 本当にうらやましそうにまひるがいうから綾彦はきょとんとした顔になってしまった。
 うまく意味がつかめない。
 その言葉に本当の羨みが覗けてしまう。
「自由に生きてるから?」
「それもあるんですけど……んー、ほかにもいっぱいうらやましいことはありますよ」
 幼いしぐさでたくさんとあらわすまひるに、苦笑せざるおえない。
「それならお前もそうしたらいいじゃないか」
「んー、そうですけど……」
 煮え切らない返事。あちこちに視線を移す落ち着きのない目。
 そして何かをあきらめたかのようにため息をつく唇。
「まあ、やりたいことがないからどうしたらいいかわかんないんですよ」
 苦笑して言うまひるに綾彦は子供にするように背中をたたいてやる。
「まあ、悩むのもいいさ。やりたいことなんて簡単に見つけられたらおもしろくないだろ」
 まひるはまだまだ若いんだから、十分見つけられると思う。
 高校だって、そういうところを見つけるための場所といっても過言ではないと思うし。
 綾彦にとって高校は未知の世界ではあるけれど。
 だから綾彦にとってまひるは少しうらやましいのかもしれない。
 暖かな自分よりも少し高めの体温。
 愛されたもの特有の蔭りのない笑み。
 手に入れたくても手に入れられない何かをまひるはもともと持っているような気がする。
 うらやましくないふりをして目をそらしていた何かを。
 天使の羽が生えていてもおかしくないくらいに純粋そうな彼女が。
 ……まあ、天使というには少し難ありな性格しているけれど。
「そろそろですね、撮影」
「そうだな」
 そろそろ準備ができるだろう、撮影現場に眼を移す。
 そういえば、何でこのこだけを撮るのだろうと疑問に思っていたことを思い出した。
 彼女は「わがままだ」といったけれど、モデル気取りをしたいわけではないんだろう。
 何かに使う写真を撮るのだろうかと頭によぎるけれど、いったいなにに使うというんだろう。
 使い道なんて結構限られている。
 それなのになんで?
 悩むのが嫌いなはずなのにその疑問が頭から離れない。
 多分、それはまひるが撮影という言葉に悲しげな顔をするからだ。
 あのかげりのない笑みとは反対の、どうしようもなく不安そうな顔。
 自分から望んだのに、なぜそんな顔をするのかが分からない。
 目立ちやがり屋でもなく、綾彦のようにモデルを目指したわけでもなく。
 ただ、遠くを見るように。ただ、何もかもをあきらめているかのように。
 そこにたたずむ、まるで幽霊みたいな顔。もっとも、綾彦は幽霊を見たことがあるわけではないが。
「……笑えよ、ちゃんと」
「え?」
 綾彦の言葉にまひるは首をかしげた。
 綾彦はまひるの顔を見ずに言う。
「笑えよ。ちゃんと笑ってくれ。じゃないともったいないぞ。あの人が気まぐれ起こすなんて本当に数少ないんだから」
 そういって背中をたたく。こうすれば子供は元気を出すおまじないみたいなものだ。
 綾彦もそういう経験がある。誰かに背中を押してもらわなければ動き出せはしない。
 それがマネージャーの斗海であったり、養父である社長だったりした。
 だからそれは綾彦の子供への癖。迷ったときは背中を押せばどうにか動く。
 それが悪い方向だったら引き返せばいいし、傍の大人に甘えてもいい。
 その権利が彼女達にはあるのだ。
 だから、綾彦は背中をたたく。自分がそうされたように。
「なにがあるのかは知らない。だけど、写真なんて持ってりゃいいもんなんだから撮ってもらえ」
 何の目的とか関係なしに、綾彦は自分の師の写真が好きだ。
 そしてきっとまひるも好きだ。
 だからきっといい写真になるだろう。
 そう信じて疑わない。
「……はい!」
 その目は決意を秘めた目だった。
 何か、決意を秘めた目だった。
 まっすぐと前を向く。そして一歩をひねり出すように歩き出す。
 きっと、何かがあるんだろう。だけど、それでも決意しなければいけないんだろう。
 彼女の決意はどこか綾彦が過去にした決意の仕方に似ていた。
 どうしようもないことを、自己確認するしかない決意。
 選択肢はそれ以外に考えられなくて、それでも迷ってるときにする。
 綾彦がしたのは施設を出ても両親を探さない決意。
 今更という想いと、でも一度という想い。
 それを悩み続けて、決着を付けるために。
 興味がなかったわけじゃなかった。ただ、ひたすらと興味がないふりをしていた。
 憎んだわけでもなく、会いたかったわけではないけれど。
 自分の起源について興味があった。
 どうして自分が生まれてきたのか分からなかったときに知りたくなった。
 けれど、生まれた意味を探すのはナンセンスだと気づいた。
 生まれた意味は探すのではなく、作るものだとカメラが教えてくれた。
 生まれたことに意味はない。生きることにも意味はない。
 生きることの意味はただ一つ。ここに存在があるからだ。
 与えられた意味は綾彦に何ももたらさなかった。けれど、綾彦はだからこそ自分の道を自分で選べた。
 何のしがらみもなく、ただ好き勝手に生きることができたのだ。それだけでもこの人生を悔いることはないと思ってる。
 けれど、それだけでは割り切れない何かをいつも抱えていた。
 カメラに向かってどこか硬い笑みを浮かべている彼女もそうなのだろうか。
 一生懸命笑おうとしているのがありありと分かる彼女も。
 笑みはけして自然なものではない。けれど、どこかに消えそうな感じのきれいな笑みだった。
 変な子だと思う。
 人間誰しも二面性を持っているというけれど、こんなに印象がころころ変わる人間は初めてだった。
 緊張していると思ったら、物怖じしないで綾彦と会話したり。そうかと思えばそうやって合致勝ちに緊張したり。
 静かなのか騒がしいのか。それすらもころころ変わる。
 その変化についていけないような、目が離せないような。
 それはきっと興味とか、そういうものではなく。
 彼女の不安定さが過去の自分を思い出させるからだ。
 結局置いてきぼりにした自分の感情を彼女は持っている。
 だからこそ、綾彦は目が離せないのだ。過去の自分から、置いてきぼりの自分から。
 まるで誰も手を差し伸べてくれなくとも歩くしかできなかった自分を見ているようだったから――。
「よう、綾彦。暇か?」
 近藤がそう声をかけてきて、綾彦は肩をすくめた。
 今回は本当にまひるの話し相手しかしていない。けれど、それが今回の仕事だ。
 だから暇といっていいのか、また世話係としての職務についているといえばいいのか。
「なんで師匠はこの仕事を請けたんだろ。ただの家族写真にしては変な感じ」
 第一撮られるのがまひるだけだというのが解せない。
 綾彦がそうもらすと近藤は少し苦笑した。
「まあ、ちょっと小耳に挟んだ話なんだけど今回の仕事。どうやら先生のお友達じゃなくてそのお父さんからの依頼らしいんだよな」
「は? ってことはまひるのおじいさんってことっすか?」
 しかし何でまた孫の写真なんか……まあ、たしかに孫って可愛いっていうけどな。
 綾彦はぽかんとしたまま近藤を見やる。
 近藤は鼻の頭をかきながら、こう続けた。
「まあ、なんていうか結構な猫かわいがりようだったみたいだな。ほかの孫がほとんど成人してしまっているのもあるが……」
「なんっつーか、そこまでいいもんなのかって気がしますけどね」
 家族の絆というのはすごいと思う。他人には許せないことが血がつながった相手だといとも簡単に許せてしまうのだから。
 それが甘えだとは思わないけれど、思えるほど綾彦は「家族」というものを知らないけれど。
 それでもその絆の異様性とそれに対する憧れみたいなものはある。
 きっと、なにをするでもなく相手の特別になれるだろうそれは消して綾彦には手に入らないものだ。
 気を許せる相手を選ばない。誰にだって気を許すし、ある程度は防御もする。
 綾彦のスタンスは「誰にでも平等」。尊敬とか優越感とか好意とか侮蔑とかそういうものを抱く相手がいないわけではないけれど、それでもそいつじゃなきゃ駄目だという相手には出会ったことがない。タイプによる好き嫌いはあるけれど、誰を許せて誰を許せないというのはない。
 誰にだって当たり前にある特別の選択を綾彦はどこかしらで嫌悪していた。
 誰とでも特別になれない自分を知っているから。だから綾彦は特別を作らない。
 だからだろうか。恋とか憎悪とかそういうものがひどく遠いものに見えるのは。
 選ぶという行為自体苦手だ。選ばれなかったものなんて、選ばれたもの以上にたくさんいるのを知ってるくせに。
「まあ、俺たち根無し草にはわかんねーもんかもなー」
 綾彦の心のうちを知ってか知らずか、近藤はそういいながらあごをなでる。ぞりぞりとかすかな無精ひげがすれる音がした。
 綾彦とまひるは似ていた。けれど、まったく違っていた。
 条件が違うが似ているものはあるけれど。それがこんなにも苦しい事実だとは知らなかった。
 同じ丸いものでも月とすっぽんが違うように、綾彦とまひるも違う。
 すっぽんは月を見ながらなにを思うだろう。見比べられながらも違うことを知っているすっぽんは月に嫉妬をしないだろうか。
 綾彦は急に自分が小さく思えた。

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