どんなふうに愛されていたのか。
それを初めて知りたいと思った。
綾彦が戻ってきたとき、撮影は佳境に入っていた。
そこで微笑む少女に正直顔を見せたくなかった。
こういうシリアスごとは苦手だ。
苦しさや悲しさがじかに感じられてしまう。
そういうのがすごいいやだ。自分から出た感情ならともかく、他人の感情まで背負えない。
ましてや、理解すらできないだろう。
――「肉親をなくす悲しみ」など。
それは予定でしかないのかもしれない。誰だって死ぬものなのかもしれない。
けれど、ここまでしか生きられないと線引きされたらどんな思いで過ごすのだろう。
はっきりした線引きではなく、けれど間違いなく近い将来に起こる予定。傍に見えるのは死神か。
それがもし身近な人に現れたのなら平静ではいられない。
多分、よほど苦しむことなのだろう。
きっとあの老人に愛された、まひるなら。
その苦しみは綾彦にはわからない。まひるにきっと綾彦の苦しみがわからないように。
ただ、それを耐えてもまひるは笑えるのだと気づいた。
無理しても、苦痛でも笑って見せるのだと。
人は笑う。楽しいときや嬉しいときに。またはそう見せたいときに。
本当の笑みなんて綾彦には関係ない。
だってカメラに向ける笑みだって自然に出てくる笑みだって、あんなにきれいだ。
だけど、何でだろう。まひるの顔は笑っているのに、――笑うなといいたくなる。
笑っていられるだけましだ。そう思っているのに。
笑うなと。そんな顔をして笑うなと。
そんな笑顔でカメラの前に立つなと。
そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。
「すいませーん、休憩はいりマース」
「え? おい、綾!?」
近藤の静止を聞かず、綾彦は永瀬川に近づいた。
「いいでしょ、師匠。あいつ、なんか笑顔変だし」
こういうときにカメラを構える人間に近づかない。それが不文律だ。
なぜならば、それだけ集中しているからだ。集中できないカメラマンは正直使えない。
カメラに向かう集中力をカメラマンが失わないように、ペースをみださないように。
けれど、撮影中のカメラマンに綾彦は近づいた。
それを当然家かのように永瀬川の元にきたときから守っていた綾彦がその不文律を冒した。
永瀬川がじっと綾彦を見る。何かを見極めようとするかのように。
静かな沈黙が生まれる。スタッフたちも何も言わない。
沈黙を破ったのは永瀬川だった。
「あんまり無理させんな。お前が思っているよりも人は完璧じゃないんだ」
そういって、永瀬川は30分の休憩を言い渡した。
永瀬川の言っている意味がわからないわけじゃない。
だけど、それでもこんな笑みを……最後にするつもりなのだろうか。
この少女はそれで満足するだろうか。
こんな笑顔を見せるのだろうか。あの老人に?
そんなこと、望んでないだろ。そんなの、寂しいだけで終わるだろ。
苦しいだけで、寂しいだけで。
そんなことをしたくはないだろう?
無理なんかするなとは綾彦にはいえない。今があるのはある程度無理したからだと自覚しているから。
偶然に助けられたりしているだけではないといえるから。
けれど、それで理想と離れるのは違うだろ。
綾彦は呆然としているまひるの手をとってその場を離れた。
その手は細くて、月並みの表現だけれど折れそうな気がした。
この少女に耐える力などあるのだろうか。
悲しみに耐える力があるとは思えない。想像だけでぼろぼろになってしまう少女に死を間近に控える老人を見守れるのだろうか。それで壊れないのだろうか。
人の死がどういうものなのか、綾彦にはいまいちぴんとこない。
そういうものは体験してみなければわからないものなのかもしれない。
そう、近しいものが死んだときその意味をいやというほど知るのだろう。
だけど、それはきっと絶望と後悔の中にやってきて。
耐えがたいほどの苦痛とともに自覚するのだろう。
そこに顔を突っ込まれてこの少女は壊れないだろうか。
そう考えて、背筋に悪寒が走った。
「……綾さん、どうかしましたか?」
不安そうに見つめる目。それが小動物を思い出させる。
誰かが守らなければ生きていけないような、そんな雰囲気。
弱い人間は苦手だ。誰かに寄りかかってしか生きられないような弱さは、ガラスのようにもろく見えて触れない。
けれどきっと
「お前みたいなやつには必要だったのかもしれねーな」
ただひたすらの温かさが。
「……何なんですか?」
まひるは不思議そうに綾彦を見つめる。
ただ真意を探るためにひたすらと。
綾彦はただ、まひるをみつめた。そしてそっと頬に手を伸ばした。
その頬の温かさを感じる。
「ちょ、ちょっと綾さん!?」
まひるの頬はまるで綾彦の手に反応したかのように赤くなる。
綾彦はにっこり笑ってそのままその軽くつかんだ両頬を――引っ張った。
「いた!? ちょ、ちょっとあやさ、いたいって!」
まひるはあわてて綾彦の腕をたたいた。
綾彦はにやりといやな笑みを浮かべたままその手を離した。
その瞬間ぱっとまひるの頬は本人の手で包まれる。
「な、なにするんですか!? 綾さんのならず者!」
まひるは自分の頬をすりすりとなでながら、綾彦をにらむ。
「まったく綾さんは女の子の扱いをわかってません! 何考えてるんですか、この朴念仁! まったく、いたいけな女性の頬を赤くするまでつねるなんて紳士のすることではありません!」
うーうーうなりながら自分の頬をなでるまひるはさっきまでの憂いをなくしたように思えた。
「そういう風にしてろよ」
「え?」
「変な顔をするな。あんな笑顔をカメラに向けるな。後悔するぞ」
頬を押さえながら綾彦を見上げるまひるはまるで、疑うことを知らない少女で。喜びとか希望とかきらきらしたものしか受け付けなさそうで。
けれど、そんな人間いやしない。
誰だって清濁併せ持っていてそれで苦しんでいるんだ。
喜びのほかに悲しみがあり、希望のほかに絶望もある。
それをきっとまひるは肌で感じている。
だけどそれから目をそらす。けして存在しない可能性のように。
一番高い可能性から目をそらしているだけ。
「怖いか? お前の行動は爺さんのためだと俺は聞いた。そしてそれを意味するのもおそらくわかってる」
「な……!?」
まひるの目が大きく見開かれた後、非難するように綾彦を見た。
まるでルール違反を犯した罪人を責めるような目で。
「別に意味なんてありません。輝かしい、青春の一ページを残しておきたいと思っただけですよ。時は光のごとく立ち去るのです。だから一番いい時期の姿を撮ってもらいたいなーって思っただけですよ」
「……お前の心になんて踏み込みやしないよ。あわてんな。お前が向き合うべきなのは俺じゃなくて、矛盾したお前の心だ」
「……」
綾彦は小さい子猫をなでるように、やわらかく頭をなでた。
まひるの方のこわばりは、まだ消えない。それを振り払おうとしたらしい腕がさまよう。
そして、力なく綾彦の手首をつかんだ。
弱々しく、しかし確かに。
「怖かったんだろ。お前はまだ否定してるのに、していることは肯定しているみたいで。してしまえば全てが終わってしまいそうで。だけど最後になるかもしれない爺さんの願いを聞きたかったんだろ?」
「そんなんじゃないです! お祖父様はそんな……ただ入院するだけじゃないですか! ただ、寂しいからって私の写真ほしがっただけですよ……! ただ、私がいけないから写真だけでも連れて行ってもらうからで……最後なんで……私は知らないです!」
綾彦の手首を握った手に力が入った。そして敵を見るかのように綾彦をまっすぐとにらんだ。
まるで傷つけたら噛み付いてやるというような……そう、小型犬。主人を守ろうと必死になっている、忠実なる相棒。
ふと、目元が緩まる。大丈夫、こいつは浅川綾彦のようにならない。
「ああ、そうだ。まだ決まってない。ならそんな顔するな。奇跡なんて五萬とあるんだ。寂しい中でお前の写真が力になるかもしれない。なら……一番かわいい顔で写れ」
「は?」
にらんだ顔が情けなさそうな顔になった。
まひるの表情の変化が、綾彦にはなぜかおかしくて。そして愛しくて。
「俺は医者じゃないからいつまで大丈夫かだなんて知らない。だけど……爺さんはお前のことを愛してるから持ってる写真はかわいいほうがいいじゃん。お前が写真に写ったからってそこからカウントダウンが始まるわけじゃないんだ」
慰めるように綾彦はゆっくりとそういう。歌うように軽く。言い聞かせるようにやわらかく。
傍で誰かがなくなった経験のない綾彦にとってまひるの気持ちは想像するしかできない。
けれど、後悔なんてしないでほしい。写真は魂を抜くものじゃなくて、今を刻むものだ。人の生き死になんて関係ない。
だから人の生死をその小さな肩にまだ乗せなくていいんだ。
まだ信じていいんだ。奇跡があるのだと。誰だって奇跡を予測することなんてできないんだから。
綾彦が全てを知っているわけじゃない。ほんの少し、老人から聞いただけのこと。
『あの子はまだ幼い。だからこれは残酷な事実なのかもしれない。けれど、それを乗り越えられる力がもともと人間にはあると思うのですよ』
あの老人はそういって笑った。
その笑みが綾彦がカメラを向けたくなるほど、きれいでこの世に存在するものなのだろうかとただ思った。
死を覚悟した人間は、こんなに美しくなるものなのか。それとも、この老人だからだろうか。
ひどく尊く、ひどく鮮やかで、ひどく儚く……
ただ、手を伸ばしても届かないくらい遠い人。
それを予感させるような、けれどそれは死という言葉のようなどろどろした真っ黒なものではなくもっと崇高なところにいるような気がした。
こんなきれいな笑みを浮かべられるような、穏やかな生き方をこの人はいきてきたんだと思う。
穏やかなだけでいきてはいけない。けれど、きっと穏やかな人生ではなく生き方をしたのだと思う。
だから、悲しむな。寂しいのはいい。けれど哀れんではいけない。
そう、なぜか思った。
だから苦しまなくていいといいたかった。ただでさえ苦しいのに、このこは自分でより苦しみのようなところに行っているような気がして。
楽にしてあげたいと思った。
「そんなに気にすんな。お前が悔やんだら爺さんも悔やむさ。だから、悔やませないような笑顔を作ってやれよ。無理しても笑ってみろ。無理してるとわからないように、笑ってみろよ。今のままよりずっといいから」
そういってにやりと笑って見せた。
まひるは視線を困ったように漂わせていたけれど、挑発的な言葉に怒ったような照れたような複雑な顔をしてにらんだ。
「……後悔なんてしませんよ。何をすることがあるんですか。今までしゃべったのあなたの妄想です〜」
と舌をべっとだす。それはぜんぜんお嬢様らしくなくて、憂いなんか全然秘めてなかったけれど。
そんなに単純な問題じゃないだろうけど。
きっとまだ、心は悲鳴を上げて泣いているんだろうけど。
それでもいいかと。きっと悲しみはいえるものだからと。
綾彦はゆったりと笑った。
きっとそれが、綾彦が初めて感じた感情だった。
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