大好きだよ。
 きっとずっとずっと大好きだよ。
 そう唱えたら、ずっと一緒にいられると思えるのは子供の特権だと思わない?


「冷えてきたからそろそろ部屋に入るぞ、俺は」
「アキ兄、年寄りだもんねー」
 私はそう茶化しながら、けど星の魅力にとらわれたようにそこを動けなかった。
 いや、動きたくなかった。
 ここにアキ兄が住んでいるというだけで。
 その空気を味わいたいと思うほど、私は乙女ちっく回路をしていただろうか。
「つーか、ここが空気いいからか」
 海の匂いが含む空気はとても優しかった。
 冬の寒空の中、ゆっくりと進む空気。
 それはまるで置いていかれた土地のよう。
 ゆっくりと、時間が進む。
 いつまでもここにいるわけにはいかない。
 アキ兄は心配性だから。
 明日にはまた、アキ兄と離れる。
 それは確実だ。
 嵐がおきれば帰れないけれど、天気予報では穏やかな波だとやっていたから。
 明日になれば、私は帰る。
 そして……。


「アキ兄、じゃあまたね」
「またねって……また来るつもりか……」
 アキ兄は困ったように笑う。
「たく、お前は本当に何のために来たんだかわかんねーよ」
 そりゃ分かんないわよ、アキ兄には。
 戻ろうというわけではなく、ただアキ兄の話を聞いただけなんだから。
 でもさ、でも、けしてあるわけがないのに一緒にいて日常的な事をするってさ。
 戻ってきたような気がしたんだ。
 お姉ちゃんのこととか、先生と生徒だとかそういうの抜きで。
 ただ、アキ兄にひたすら憧れてた時が蘇ってくるような気がしたんだよ。
 まあ、蘇んなかったけどね。
 結局想いは変化してたけどね。
 それがいい事だかなんだか知らない。
 想いは時が経つにつれて複雑化していく。
 ずっと前はもっともっとシンプルなものだった。
 けれど、そこにいろんな装飾品がついてきて、本質的には変わらないのに外見はぜんぜん違うものになっていった。
「ねえ、アキ兄」
 もうすぐお別れだよ。
 ねえ、お盆とか正月とかなら帰ってくる?
 もうここにこなきゃ会えない?
 そう問おうとする唇を止めた。
 そんな事を言いたくて、ここに来たつもりはない。
 アキ兄がそんな事出来ない事は知っている。
 きっと誰かの結婚式やお葬式がなきゃ帰ってこないだろう。
 まあ、お姉ちゃんが離婚するって騒いだら止めに帰って来るだろうけど、今見ているとそんな心配はいらなそうだし。
 その代わり、とびっきりの笑みを浮かべてやった。
 いわゆる不敵な笑みだ。そして多分このときの私が一番不敵だっただろう。
 アキ兄は驚いたように目を見開く。
「ねえ、アキ兄。私ね、最近決めた事があるの」
 ねえ、アキ兄。
 高校生って子供なの。
 師原がそう教えてくれた。
 でも、同時に大人なのよ。
 ここに来て分かった。
 子供でも大人でもない自分じゃなかった。
 子供でも大人でもある自分だった。
 子供の無邪気さと大人の不敵さを合わさっている世界最強の年代なのよ。
「私、勉強思いっきり頑張るわ」
 その言葉が意外だったのか、アキ兄は唖然としたような顔をしたあとニヤリと笑いやがった。
「まあ、頑張れよ」
 そして私の髪をぐしゃぐしゃにした。
 私の髪は結構ストレートに見えて癖があるから絡まりやすいのに。
 でも、私はアキ兄のしたいようにさせてやった。
 この手の温もりとも暫く会えないんだなと思うと感傷的になったらしい。
 らしいというのは、結構心臓の音が大きいからムードもなにも出ないから。
「ねえ、そしてね、受けたい大学があるのよ」
 そういってにっと笑った。
 きっと私の顔にはいたずらっ子特有の笑みを浮かべているんだろう。
 たくらんで、引っかかることを期待する独特な笑みだ。
 そして驚いた顔を心待ちにしている笑みだ。
 アキ兄がそれに反応するように、皮肉った笑みを見せた。
「ほう、それはそれは。受けたい大学だなんて、お前も大人になったんだな」
「いつまでも甘えてばかりはいないって事よ」
 馬鹿にしたようなアキ兄に私は歯向かう。
 これがアキ兄だなーだなんてふざけた事を思いながら。
 まあ、別にいいけど。こういうところも好きだなーだなんてピュアな事言わないし。
「で、どこの大学に行きたいんだ? まさか外国大とか?」
 アキ兄が自分から地雷を踏んだ。
 心の中で私はほくそえみながら、
「N大」
 私はキッパリと言ってやった。
 ついでに思いっきり得意そうに見える笑みも浮かべた。
 N大は私の家の近くにあるわけじゃない。
 それに学科だけを見るのなら私の近くの大学だってN大でやる学科はある。
 それにN大よりも東京に行ったほうが早いのだ。
 それでも多分一人暮らしになるだろうけど、親だって遠くのN大より近くの東京にいてもらったほうが安心だろう。
 それでもそこを選んだ理由。
 それは
「私、長崎の大学を受験するの」
 アキ兄の傍にいるため。
 ねえ、気がついたでしょう? 私の気持ち。
 アキ兄は鈍感だけれど、馬鹿じゃないから気づいてしまったでしょう?
 アキ兄は黙って考え込むように目を閉じていた。
 そして疲れたようにため息をつく。
 駄目だよ、アキ兄。昔の私には通用しただろうけど今の私には通用しないよ。
「お前な……ここから通う気か?」
「馬鹿な事言わないでよ。私にだってモラルはあるわ。アキ兄の迷惑になる事なんて出来るわけないじゃない」
 いくら目的がそれだからって私だって馬鹿な事しないわよ。
 まあ、ここまで来てなにいってんだって気にはならないでもないけどそれでも一泊するのとずっと住むのでは違う。
 分かってるわよ、私のことはアキ兄のマイナスにはなれどプラスにはなれないでしょ?
 生徒と先生じゃなくても私達は義兄妹なんだから。
 結婚しているならともかく、そうじゃなかったら二人で暮らしてるって変じゃない。
 私達が話さなくてもいつの間にか事前に知っている事だってあるし、それにそうじゃなくても結構離れている男女が暮らしていたら噂にならないわけがないしね。
 でもたまに遊びに来るくらいなら、目立たないし、それこそ義兄妹だから心配でって言い訳も立つ。
「さすがにここからだと大学通いにくいしね。だから本土のほうで一人暮らしをするのよ」
「じゃあ、何で……」
 そう聞き返そうとしたアキ兄が、諦めたように目をそらした。
 けれど、これが最後のチャンスなんだから私はそれを許せるほど寛大ではないし馬鹿でもない。
「ねえ、アキ兄、言えばいいのよ。私の目を見て、「迷惑だ」って一言いえばいいのよ」
 そうすれば私はアキ兄から離れるんだから。
 そう、これは私の勝手だけれどアキ兄が嫌がってまですることじゃないから。
「……」
 アキ兄はいくらか諮詢したあと、真っ直ぐと私を見た。

 ――私の目を見た。

「お前の気持ちに答えることは、多分出来ないと思う」
 そうアキ兄はキッパリと告げた。
 ああ、これは私に言っているのだと自覚する。
「俺は千咲への想いを断ち切れない。多分そっくりなお前には想いは抱けない」
 これはアキ兄が決別を求めているってことだ。
 けれど私は首を振る。そんなんじゃ私は黙らないわよ。
「知ってるわ。知ってる上で私はアキ兄の傍にいたいって言ってるの」
 アキ兄は眉を寄せた。切なそうに。まるで過去の自分を見ているように。
 きっと、これは昔のアキ兄が選んだ選択肢なのだろう。
 だからこそ、私にニの轍を踏ませないようにしている。
 でも、私はアキ兄じゃないから。
 アキ兄が駄目だったからって、アキ兄が辛かったからってどうして私が駄目になると、辛くなると決まってるの?
 お姉ちゃんに恋したアキ兄。
 アキ兄に恋した私。
 確かに似ている恋の形。
 二人とも違う人に想いを寄せている人を好きになった。
 でも、それが何?
 似てるのと同じのとは違う。
 いつでも運命は動いているんだからもしかしたら違うエンディングが待ち受けているかもしれないじゃない。
 同じ運命が周ってくるなんて限らない。
「私はね、アキ兄。とっくの昔にそんな感情通り過ぎてんのよ。私はアキ兄に……まあ、報われたくないとは言わないけど、無理やり答えてほしいだなんて思っちゃいないわよ。答えてほしいだけならもっといい男捜すわ」
「……だったらなんで俺なんだ?」
 アキ兄は別の人を好きになればいいのにと遠回りに言っているの位は分かる。
 私だってアキ兄の立場だったら言うだろう。
 他の人を好きになれと。
 アキ兄だって私の事がそういう意味ではなくても好きなのだと思うから。
 けして嫌われているわけではないのだと、場違いにもそう思う。
「私だって、違う人を好きになることぐらい出来ると思うわ」
 遠くから来るだろう船にまだ来ないでと願いながら私は言った。
「多分、アキ兄が思っているほど私はアキ兄に似てないのよ。他の人を愛することだってできると思う」
 心がそれを否定しない。
 それは真実だから。
「でもね」
 けれど、けれど――。
「それはアキ兄が私に会わなかったらっていう大前提があるのよね」
 きっと私はアキ兄を何より先に選ぶから。
 誰かとアキ兄を比べたら、何の躊躇もなく今の私はアキ兄を選ぶと思う。
「あなたにあって、私はあなたに惹かれた。お姉ちゃんにあなたが惹かれたように。お姉ちゃんでなければいけない理由がアキ兄にもないように、私も理由なんて要らない。必要ないじゃない、気持ちが存在している理由なんて」
 そういらない。
 理由なんてあってもなくても、この気持ちは捨てられないから。
 どう抗いてもこの気持ちがあるというのなら、その理由を私は知らなくてもいい。
「私はアキ兄の傍にいるって自分のために自分の意思で決めたの。だからアキ兄に本当は了承を得なくてもいいんだけどね。それじゃあ後味悪いかなって思ったから言っただけ」
 だからアキ兄には止められないんだという意味を込めて私はいってやった。
 にやりと勝利の笑みを浮かべて。
「どう? 降参?」
「……行きたい大学がどこだろうと反対できないだろ。お前が自分で決めたとこなら反対するのは教師失格だ」
 まあ、レベルが低いとかそういうので反対する教師もいないことはないんだけど、アキ兄そういうのすっごく嫌がるからなー。
 まあ、これは大義名分にすぎないのだろう。
 降参と言いたくない、アキ兄の言い訳。
 言い返せない。きっと、アキ兄は私を突き放せない。
 私が強引に行けば、アキ兄はいずれ許容してしまう。私の害にならない限り。
 それは、慕情ではなくただの長年付き合った上に出来た家族愛のようなものだと知っていても、それだけの位置に私がいることを自覚させる。
 私は昔それが嫌で、アキ兄に気を使っていた。
 細かい我侭は言ったけれど、アキ兄が少しでも不快に思いそうだったらけしてその言葉を出すことはなかった。  けれど、それはアキ兄のためではなく、結局自己保身にしか過ぎなかった。
 だからこそ、今は思いっきり我侭をいってやる。
 アキ兄のためだと思わないのなら、どんどん強気になれる自分が可笑しい。
 でも、きっとこんな自分を嫌いにはなれない。
 まだまだ、伝えなきゃならない事があるのにお別れを告げる船の音が近づいてきた。
 いや、それなら前日にも言えばよかったんだけれど、踏ん切りがつかなかったのだ。
 それに伝えれば伝えるほどそれは増えてくる。
「……来るんなら一発合格で来いよ」
 もう荷物を持って船着場で待っていなきゃならないと思ったとき、アキ兄の声でその言葉が私の耳に運ばれた。
 そうでなきゃ、俺が恥ずかしいからなと私の頭を撫でた。
 それはいつもとは違う撫で方のように思えた。
 ゆっくりと、名残惜しむように。
 それは妹として撫でられたのかもしれない。
 家族として撫でられたのかもしれない。
 けれど、それは嬉しくて涙が溢れそうになる。
 むかつくわ、こんなところまで負けてるなんて。
 そんな簡単な事が死ぬほど嬉しいだなんていってやらない。
「じゃあ、またな」
「うん、またね」
 私達が、別れの最後に交わしたのはそんな言葉だった。

 またね。
 その言葉の意味を私はこのときほど深く考えたことはない。
 それは再び会おうという意思表示。
 長い長い、2年間とちょっとになるなと感じる。
 でも私はきっと我慢ならなくなったら会いに来て、勉強教えてもらって帰るのだと思う。
 頑張ってやろうじゃないか。
 今離れることはいつまでも傍にいるための布石。
 さあ、頑張ろう。
 アキ兄といつまでも傍にいるために。
 後悔しないことをしよう。
 今まで後悔続きだったから今度こそ。
 後悔しないために自分のために努力することを誓おう。
 未来の私に誓おう。
 胸を張れる未来に向けて懸命に努力することを。
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