遠いわけじゃない。
 けれど、確かに距離は存在するんだと思う。

「なあ、江原。お前もう英語の宿題やったか?」
「えー、まだに決まってんじゃん。提出日までまだ余裕っしょ?」
「ばっか、相楽っちの課題は提出日直前にやるとげんなりするんだぞ!」
 力強く力説する目の前の男は哀れだと思う。
 確かに教科書には文章の骨組みの仕方は載っているけどアキ兄のプリントの答えはどこにも載っていないことが多い。英和と和英は勿論、英文法の本も必要になる。それでもわからなかったら英語の得意な友達に聞くしかない。
 そのこともアキ兄もわかっているのかいないのか、大抵プリントには一週間の猶予を与えてくれる。
 なので真面目な人たちは一週間前からこつこつやる事になる。英語が得意な人は一時間で終わるぐらいの量だ。  しかし、怠け癖のついている奴はそうはいかない。
 大抵の人は提出日前日にやるのが当たり前だろう。人間、夏休みの宿題は一週間前に始めることが基本だ。そしてその頃に終わっている人は神様だ。
 アキ兄の宿題も写せばいいのだが、なぜかアキ兄はそういうことを見破ることが得意でその次の時間は当てられることを覚悟でやらなければならない。
 まあ、私の場合アキ兄に聞けば答えは教えてくれないけど、解き方とかヒントは教えてもらえるから他の人よりは楽だったりする。
「穂夏ー、ヘルプー!」
 いきなり背中に重力がかかった。
 いや、誰かが子泣きジジイよろしくのしかかっているのだ。
「桜、重い」
「ひどい! 私そんなに太ってないわ!」
「でも痩せてもない」
「確かに桑田は江原よりはつくところに肉ついているよな」
「「どういう意味よ!!」」
 師原の言い方はどちらにしても失礼千万だ。
 私は胸がないことを気にしているし、桜は胸と腰に脂肪がつきすぎているのことを気にしている。
 師原はそのことに気づかずにからかってくる。
 絶対こいつは女にもてない。
「で、なにがヘルプなの?」
 私の言葉に桜は飛びついた。きっと師原のことはもう眼中にないだろう。
「そうそう! おねがい、穂夏! 一緒に合コンしよ!」
「は?」
 合コン、正式名称だかなんだか知らないが合同コンパ。
 ちなみに桜の好きなものの一つだ。
「なんと東条なの! 相手校が東条なのよ! あの大学付属の! エリートなの!」
 興奮する桜は鬼気迫っていて結構怖い。しかも私の肩を掴んでゆするから脳みそがシェイクされる。
「いや、桜、わかったわかった! だからお願い止めて!」
 そうでなければ私の首がもげる!
 桜は見かけによらず力持ちらしく生命の危機さえ感じた。
「けっ! どうせ世間知らずのお坊ちゃん達じゃねーか。やっぱ男はハートだろ?」
 余計な事を言った師原に我に返った桜の冷たい視線が注がれた。あーあ、怒らせちゃったよ。
「……少なくとも単純馬鹿な強吾君よりましだわ」
 師原はぐっと言い詰まった。
 実力テストの後でそういわれるのはきつい。師原の場合はなおさら。
 私は下から数えたほうが早いなんてこと、アキ兄の義妹としてできない。さすがにそれだとアキ兄の教え方が問題視されるかもしれないから。
「言っとくけど私は行かないからね」
 このままではあやふやになって桜の中で約束したと思われることに気づいた私は慌ててそう宣言する。
「えー、行こうよー、エリートだよー」
 桜が不満そうに唇をとんがらせるが、男では効果抜群であるその技は女である私にきかない。
「それより! 桑田! お前相楽っちのプリントできたか!?」
 立ち直った師原はプリントを突き出して桜に詰め寄った。
「はあ? 出されてから何日たってると思ってんの? 当たり前じゃない」
 ごめんなさい。当たり前じゃない人がここにいます。
「頼む! 見せてくれとは言わないから教えてくれ! どうしてもわからないんだ!」
「は? そんな事しないで暁灯先生に聞けばいいじゃん」
 懇願する師原にかなり嫌そうに桜は師原を睨む。
 どうやら東条を馬鹿にされたことをまだ怒っているらしい。
 まあ、あそこには桜の本命がいるから仕方がないんだけど。
「いや、それは駄目なんだ。もう聞きにいったけれどわかんなかったんだ!」
 別にアキ兄は教え方が下手なわけじゃない。ただ、たぶん英語が苦手だった時がないから師原がどう理解していないかわからないのだろう。師原は国語も苦手だから説明するのがものすごく下手だ。
 しかし……。
「っていうかなんでそんなに頑張ってるわけ?」
 私は思いっきり疑惑の念をこめて師原にきいた。
 師原はその問いを聞いたとたん赤くなってまるで恋する乙女のような振る舞いをしている。
 本人は気分が盛り上がっているんだろうが、端から見てたら気持ち悪い。
 ここらへんでどういうことか理解できるのはちょっと複雑だったりする。
「あっとな、相楽っちのプリントを期日までに全問正解で提出したら志津子さんがデートしてくれるっていうんだ! 相楽っちにもちゃんと年上の彼女が喜びそうなデートスポット聞いてきたし! これはもうやるっきゃないでしょ!」
 私と桜は呆れたような、憐れむような視線で師原を見た。
 志津子さんっていうのはアキ兄の後輩で私達より4つ上のキャリアウーマンという言葉が似合いそうな人だ。
 実際はまだ学生だからその言葉は当てはまらないんだけど。
 女の人特有の柔らかい優しさも規律正しい厳しさも持ち合わせているある意味理想の女性だったりする。
 まあ、その人がアキ兄の後輩だということも信じられないが、師原をきちんと相手にしているということも信じられない。
 無視すればいいことなのに師原の想いを返せないけれど、きちんと受け取るくらいはする。それで突き放すこともなく、こうやって頼めば条件付のデートをしてくれる。まあ、志津子さんにとってそれはデートじゃなくて弟とお出かけという感じなのだろうが。
 私が男だったら絶対志津子さんに惚れているだろう。
 まあ、一番不思議なのは志津子さんの初恋の人がアキ兄であることだろうか。志津子さん自身は「あの頃は憧れを恋と勘違いしてたのかもしれないわね」と苦笑していたが。
 志津子さんほどの人が誰かに憧れるとはあまり想像できないが、私達の人生より長い時間の末に今の志津子さんがいるということだろうか。
 その事実は私にとって少し寂しさをもたらしている。
 志津子さんがそうであるようにアキ兄も過去の何人もの自分を経て、今のアキ兄を構成しているということだから。
「どうりで今回は少し簡単だったわけね。暁灯先生、あんたに同情したんだ」
 桜は学年で8位だからそんな事が言えるのだろう。
 私だったら絶対言えないセリフだ。
 桜はどうやら可愛いだけの頭の悪い女にはなりたくないという。目指すは誰もが認めるいい女! らしい。
「しかし、あの程度で参ってたらやばいわよねー、志津子さんって結構いい大学はいっているんでしょ?」
「うー、お前、性格最悪だな!」
「あっそ、じゃあ教えてやんない」
「嘘、嘘です! 教えて、桜様!」
 がらっと態度を変えて懇願する師原はいっそ哀れだ。
 その瞳は捨てられた子犬を思い出させる。師原には内緒だが桜は実はこの瞳に弱い。
 桜は諦めたようにため息をついた。
「じゃあ、リトルシュガリーで特大パフェで手を打つわ」
 桜は最大限の譲歩という顔でそう言い放った。ちなみにリトルシュガリーはおいしいが学生にはちょっとお値段が高い。
 しかし、今の師原にとってそれは取る足らないことらしい。
「ありがとう! これで週末はデートだぜ!」
 桜の手を握ってぶんぶんふる師原はほんとうに志津子さんのことが好きなんだろうと思う。
 アキ兄もこんな恋をしたのだろうか。その人の一挙一動に意味を見出す乙女のようなことがあったのだろうか。  アキ兄が今の私と同い年だった時は私はまだランドセルを背負っていた。
 その頃のアキ兄は私にとって「大人」そのものだったと思う。
 私の質問には何でも答えられる、「大人」だったと。
 それは多分今でも変わらない。
 アキ兄にだって分からないことがあることを知った今でも私にとってアキ兄は「大人」で私はまだ「子供」だ。
「あ、そういえばさ、暁灯先生この前見かけたのよね」
 桜は思い出したように話しかける。
「え? どこで?」
「うんとね、ほら、新しくショッピングモールで来たじゃない? そこを可愛い女の人と歩いてた」
「うひゃー、そういえば相楽っちの恋愛ってあんましきかねーよな! ね、ね、どんな人?」
「うーん、あ、雰囲気とかちょっと新崎先生に似ているかも」
「芙優ちゃん!? うわー、結構いい感じだなー。あれ? でも相楽っちって年上専じゃなかった?」
「だから雰囲気が似ているだけだって! 見た感じ多分暁灯先生のほうが年上だよ。暁灯先生の童顔を差し引いてもさ」
「ああ、相楽っち見た目大学生だもんな」
「でもさー、なんか恋人同士って感じしなかったんだよねー。暁灯先生の顔もげんなりとしてたし」
「は? でも女と一緒に歩いてたんだろ?」
「ねー、穂夏、心当たりある?」
 盛り上がってるなーとひとごとのように聞いていたからいきなり桜が私に話を振ってきて驚いた。さすがに顔に出さないようにしたけれど。
「うん、まあ、あるけど」
「え? 誰? すっげー気になんだけど!」
 師原が期待満々と言う顔で私を見る。
 んー、ここまで期待されるとちょっと答えに困るわね。絶対皆さんがっかりするから。
「多分私の姉よ」
「……お姉さん?」
「YES」
 私の答えに予測どうり桜と師原の顔にがっかりという文字が浮かんだ。
「なんだよ。お前のお姉さんって相楽っちのお兄さんの嫁さんじゃないか。ああー、期待して損した!」
 だよなー、紗波さんとお姉ちゃんって近所で知らない人がいないほどラブラブだもん。勿論私とアキ兄を知っている人は皆そのことを知っている。私もよく愚痴るから顔は知らなくてもラブラブ振りは知っているって人結構多い。
 多分アキ兄がげんなりしていたのは持たされるだろう荷物の多さを予想してのことだと思う。
 お姉ちゃんは結構買いだめするほうだから行く回数が少なくても一回に買う量がすごい事になる。
 だから誰か荷物持ちが必要になるのだ。
「紗波さん、昼間は結構忙しい人だから荷物持ちになれないのよね」
 私は近所のおばちゃんのように頬に手を当てため息をついた。
「なんだよ、相楽っち情けねーな。デートもなしってイヤだねー」
「ほほう、じゃあお前のデートもなしにしてやろうか?」
 師原の顔が硬直した。私の顔も引きつるのが分かる。師原からはきっと見えないだろうがこっちからはアキ兄の引きつった顔がよく見える。
 しかし、アキ兄が声を出すまで気がつかなかったわよ。気配を消すなんて卑怯じゃない!
 周りを見れば皆、席についてこちらを見ている。
 あ! 桜まで! あんた裏切ったわね!
「確か富倉、見たい資料館があるのだけれどお前には退屈だよなっていってたからな。しかもそこは俺の友達のつてがあるからチケット簡単に取れるんだよな」
 アキ兄の独り言のような言葉に師原の顔が見る見る青ざめていくのがわかる。富倉って志津子さんの姓だ。
 ああいうときのアキ兄はことさら意地悪だ。
 私は関係ない顔をして席に戻った。
 アキ兄はターゲットを師原に絞ってあるからこっちはお咎めなしだろう。チャイムが鳴る前に席に座っていれば悪くはないんだから。
「ごめんなさいー、だからそれだけはお許しをー」
 師原が必死でアキ兄に謝り倒す。きっと情けない顔をしているに違いない。
 志津子さんはめったに人と約束を破らないが、大学に関することを最優先させるから恐らくそうなったら師原のデートは延期だろう。
 そして師原が狙っていた喫茶店のフェアが今週で終わるから、師原にとっては痛いところだ。
「さて、チャイムがまだなっていないが始めようか」
「いやー、相楽っちー、そんな事したら俺、枕をぬらすしか出来ねーよー」
「さて、この前やった慣用句だが……」
「相楽っちー」
「あー、はいはい、よく枕をぬらすって覚えたな、えらいぞ」
「そうじゃねーよー」
 師原はいつになくしつこかった。
 それだけ楽しみにしていたことだろうと思うが、アキ兄が口だけだってことそろそろ覚えるべきだと思うんだけど。
 どうせあれは大事な後輩と生徒の仲をからかっているだけなんだから。
 きっと二人が仲良くなるのはちょっと寂しいんだと思う。二人ともアキ兄に懐いているから。
 本当にこの人は寂しがり屋なのだ。

 私の恋心の始まりはいつだっただろう。
 授業をしているアキ兄を眺めながらそう思う。
 もしかしたらアキ兄なのかもしれない。
 志津子さんと同じように、アキ兄に憧れ一番最初に恋をしたのかもしれない。
 でも今アキ兄に対する想いはきっと恋じゃない。
 いつ、恋が別の何かに変わったのだろう。
 もしかしたらアキ兄に恋なんて抱かなかったんじゃないかとさえ思う。
 私の初恋はきっと私が知らないうちにどこかに行ってしまった。
 師原みたいにその人の心をつかみたいと思わないまま。
 じゃあ、アキ兄の初恋は――? 
 私が生まれた時はもう8歳だったし、物心ついたときにはもっと年をとっていた。
 もうその頃には初恋を済ませても不思議じゃないだろう。
 だから私の知らない人だといいと思った。初めての恋くらい甘酸っぱい思い出で埋めてもいいんじゃないかと思う。
 けれどもし私の知っている人だったら――アキ兄は今でもその初恋を引きずっていることになる。
 長い長い間、ずっと心の中に燻らせてそのくせそのそぶりを見せないで。
 きっとアキ兄の恋は実らない。実ってはいけないとさえ思う。
 さっさと忘れてしまえばいいのに。
 でもそれができたらアキ兄ではないのだと思える。
 アキ兄は大人なくせに誰よりも純粋だと思う。純粋とか無垢とか嫌いなくせに、感情に事情とか混ざらせられないのだ。
 極端とさえいえる、潔癖症。
 それは部屋の中だけではなくて、人間関係もそうなのだ。
 不純な気持ちなんてもてなくて、だからアキ兄は苦しむ。子供のように表に出せないで、感情をどこに捨てればいいんだろうと思う。
 アキ兄と私の間の距離はどのくらいなのだろうと考える。
 それは大人と子供の距離だけなのだではないと思う。
 確かにそれもあるのだが、距離を作る原因は私にありアキ兄にもある。
 もしかしたら手に伸ばしたら届くくらい近い距離にいるのかもしれない。
 けれど私達はけして近づかない。抱き寄せもしないし、手もつながない。近づこうとしたら同じ分だけ離れてしまう。
 けれど私達はけして突き放せない。置いていくことも、見捨てることも出来やしない。傷ついたアキ兄が立ち直るまで。
 この距離を0にしたいと思ったことがないわけではない。
 でもそれはけしていいことではないのだと思う。だから今はただこの距離を保ちたいと思った。
 私は師原のように恋をすることがあるのだろうか。誰よりも隣を歩きたいと思う人が現れるのだろうか。
 そしてアキ兄にもそういう人が新たにでてくるのだろうか。
 きっとその時はアキ兄は今の気持ちを抱えたまま恋をするのだと思う。
 捨てられない想い。恐らくもう根深くて引き抜けはしないから。
 それでも負けない想いがあるのだろうか。
 そして私はアキ兄以上に人を好きになれるのだろうか。
 アキ兄と私の距離はきっとはなれることがあっても縮まることはない。
 でも、それでも笑顔で手を触れる関係にいつかなれるだろうか。
 そうであってほしいと思う。そうでなければいけないと思う。――そうあることを願うことが恐ろしいと思う。

「じゃあ、次、江原」
 アキ兄が私を指す。どうやら聞いていないことがバレバレだったらしい。
 ちゃんと前を見てたのに。アキ兄の勘、恐るべし!
 私はひっそり桜に助けを求めるが、桜の席が私の席と結構距離があるため恩恵に与れない。
 アキ兄はしょうがないというようにため息をついて座れとジェスチャーした。
 どうせまた、今日の夜はお説教だ。
 私は一気に憂鬱になる。
 それでも行かなきゃ落ち着かないのだ。依存しているなとは思うがしょうがない。
 まあ、とりあえずアキ兄の好きなビターなちょっぴりお酒の入ったショコラタルトでも買っていきましょうか。

 停滞にも進展にも懼れる私はどこへ行けばいいのだろう。
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