何も知らないでいたかったとは思わない。
 彼の代わりに伝えなければならないなんて思えない。

「アキ兄はどこに行くつもりなの?」
 あれから一週間たってやっと周囲が肌寒くなってきた頃、私はアキ兄の部屋に来た。
「何が?」
 興味がないといわんばかりに背を向けているアキ兄の背中を睨みつけることしかできない私が悔しかった。
「どこかに行っちゃうんでしょ? お義兄さんがいってた」
「……口が随分軽い兄貴だな」
 呆れたような口調にも取れるなんとも思っていないような口調でアキ兄は呟くのを私は聞きたくなかった。
「……どこ行くか決まってないんでしょ? アキ兄、計画性がないから」
「んな事ねーよ」
「あるよ」
「……穂夏、何が言いたい」
 アキ兄の呼び方はいつも「江原」だ。穂夏という呼び方は先生になるまでだ。
「大体なんで今頃なの? 4月にはいってからのほうが自然なんだけど」
 私は意地悪くそう言う。 理由なんて分かってる。でも感情がそれに逆らう。
「……塾が忙しくなるのは今頃だしな」
「嘘つき。夏期講習終わったじゃない」
「なんだ? 寂しいのか?」
「……頷いたらどうすんのよ?」
 アキ兄の顔は見られないが、めんどくさそうに頭をかいていることは分かる。
 私はその答えは聞かなくても分かっている。
 けれど聞かずにはいられない事だってある。
 理性と感情がはじき出した答えは矛盾。
 聞いたら後悔することを知っていても聞かずにはいられない。
 この人の口から出るまで、もしかしたらと期待せずにはいられない。
 もし寂しいと口に出したのなら、ここから消えないでくれるのではないかと。
 一週間という時間は怒りから悲しさへと変貌させた。
 落ち着いたら現実がドンと押し寄せてきた。
 きっと、もう二度とここには戻らないつもりだ。
 そうとしか思えなかった。
 もし戻ってくる意思があったのならばこの人は逃げることはしないだろう。
 それほどの深い想い。
 私はそれを知らない。
 アキ兄が私の想いを知らないように、私はアキ兄の想いを知らない。
 ただ分かるのは私が子供のわがままでアキ兄を引き止めたいと思っていること。
 ただ、それだけしか分からない。
 もし、志津子さんのように大人だったのならばどうする?
 私はまだ子供で、泣き喚くしかできない子供で。
 アキ兄もまだ子供で、手を伸ばすことを恐れる子供で。
 辛いことは人を成長させるというけどそんなの嘘だ。
 成長なんてどこにもみられない。
 アキ兄も私も思いっきり傷ついてきたのに。
 成長なんてしていない。
 私達は逃げることでしか物事を解決できない。
「……アキ兄は子供だね」
「お前もな」
 否定はしない。
「そんなに好き?」
「……知ってたのか?」
 肯定もしない。
「逃げるの?」
「……さあ?」
 ただはぐらかすだけ。
 私は子供のように泣きたくなる。
 それが困らせるだけだと知っていても困らせたくなる。
 アキ兄はずっと一人の人が好きだった。
 アキ兄にとって意中の人はいつもただ一人だった。
 付き合った事がないわけではない。
 けれど、それでも好きな人を上げるとすればただ一人しか思い浮かばないだろう。
 何という残酷な想い。
 やめられるのならやめているはずの想い。
 けれどやめることも忘れることもできなかった想い。
 アキ兄はいつも手を伸ばすことを恐れていた。
 そんなに好きならばなりふりかまわず手を伸ばせばいいのに、それができるほどプライドがないわけでもなく大人でもなかった。
 誰かを傷つけられるほど勇敢でもなく、手を振り払われて何も思わないほど愚かでもなかった。
 いつからだなんて覚えていない。
 けど、私が覚えている限りではずっとアキ兄の視線の先には一人の人がいた。
 紗波さんと微笑みあうお姉ちゃんが。
 それを切なげな目で見ているアキ兄。
 最初に心の中に生まれたのは子供っぽい嫉妬。
 仲間はずれにされた気がしたから。
 けれどだんだん憐れみを覚えてきた。
 それはきっとアキ兄の想いが繊細すぎて儚く思えてきたからだろうか。
 けれど儚い想いはずっと心の底にたまっていて。
 アキ兄は何人かの人と付き合ったけれど、そんな瞳はおねえちゃんにしか向けられていなくて。
 けれど、アキ兄はお姉ちゃんの恋を実らせた。
 きっとアキ兄がいなかったら紗波さんもお姉ちゃんを見ることはなかったんじゃないかと思う。
 それほどに献身的で、だから余計に憐れんだ。
 お姉ちゃんの結婚式、アキ兄が教会に最後まで残っていたのを知っている。
 涙は流れていなかったけれど、泣いていたような気がした。
 ただ神様の象徴である十字架とマリア様をじっと目をそらさずに見ていた。
 私は初めて神が憎々しく思えた。
 アキ兄は救いを求めているのに何で手を差し伸べてくれない?
 何で……忘れることのできない想いが存在するの?
 忘れる事が救いになるのにアキ兄にはなんで与えてくれないの?
 ステンドガラスには太陽光が差し込んで、アキ兄は消えてしまいそう。
 けれどアキ兄は消えない。
 人間だから。
 人間は死ぬことはあっても突然消えることはできない。
 でも、アキ兄は消えたかったんじゃないかと思った。
 恋愛感情と兄弟愛と尊敬の間で苦しんで、苦しんで、消えてもいいと思うくらい苦しんで。
 アキ兄は紗波さんのことを愛していたから。
 お姉ちゃんと比べる事ができないくらい愛していたから。
 お姉ちゃんの想いと比べる事ができないくらい愛していたから。
 きっと紗波さんのために、そしてお姉ちゃんのために身を引いたのだろう。
 誰も傷つかないように、傷を独り占めしようとしたのだろう。
 きっと一生気づかない。
 それによって私の心が傷ついたことなんて。
 泣きたくなるほど、傷ついたことなんて。
 アキ兄は気づかない。
 私はアキ兄はそれによって新しい傷を作らないことに安心して、私はあの瞳に映らないことに新たな傷を作った。
 あの時はアキ兄は救いを求めていたわけではなかったかもしれない。
 ただ愛しい人たちの祝福を祈っていたのかもしれない。
 けれど今も思う。
 何で逃げるまでに膨れ上がった想いを未だにアキ兄は抱えているの?

 こういう場合誰が悪いのだろう。
 アキ兄につらい想いをさせると分かっていてひきとめようとする私か。
 傷つけることを怖がって手を伸ばさずに、逃げるアキ兄か。
 それともアキ兄の想いに気づかずにまっすぐ前を見ているお姉ちゃんか。

 アキ兄が好きなのはお姉ちゃんと紗波さん。
 じゃあ私は……? 
 私は誰が一番大切なんだろう。
 私はアキ兄のどんな位置にいるのだろう。

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