傷つくことは恐れない。
 もう、そうすることの無意味さを知っているから。
 傷つくことを恐れるせいで後悔することを知っているから。


「……」
 私は今、船の上にいる。
 勿論今日は平日。一応桜と師原には話してきたけど家族、特にお姉ちゃんには何も話してない。
 心配するだろうが、そこら辺は桜にアリバイ工作をお願いしているからまあ、問題なし。
 問題はこのままアキ兄にたどり着けるかってことなのだけれど。
「アキ兄、徹底的に逃げるつもりだったのね」
 自然と笑みが浮かぶ。それは勝者の笑み。
 アキ兄に初めて勝てる自信のある私の笑み。


 アキ兄の次の就職先を探すため私は結構走り回っていた。
 一番顔を見たくないのは私だろうけど、一番知られたくないのはお姉ちゃんだ。
 多分お姉ちゃんとただ今ラブラブ新婚生活中の紗波さんにも言っていない。
 同僚で仲がいいのは多分年の近い数学の西崎先生と一学年のアイドル新崎先生。あとは御蔵先生か。
 けれどこれも調べれば分かりそうだから却下。
 後は友達だけれど、それも紗波さんに調べられればすぐ分かるし。
 そこまで考えた私はとり合えず基本に戻ってアキ兄の部屋を捜索した。
 しかし何も見つからない。
 まあ、神経質なアキ兄が部屋に痕跡を残すとは思えなかったらいいけど。
「でも、ここまで綺麗にされているときついかも」
 その部屋には行き先を残す痕跡どころか、アキ兄がいた証拠すらも消していた。
 きっともうこの部屋には誰かが入る予定があるのだろう。
 何一つなく、絶望しかかる。
 その部屋はアキ兄がいた頃とは違い私を歓迎してくれなくて、とても冷たかった。
 けれどこんなことに負けてはられない。
 ここで何か見つけなければ、私とアキ兄を繋ぐものはなくなってしまう。
 師原が前に言っていた繋がりは全て他人が結んだものだ。
 師原はそれすら欲しがったけれど、そんなもの私は要らない。
 自分で繋がらないと意味がない。
 少なくとも私には意味がない。
 私を今動かしているのはその意地だ。
 けして諦めないと誓った時の意地だ。
 私はすぐさま知っていそうな人の顔を頭に浮かべては消去した。
 そしてある一人の女性に行き着いた。
「志津子さんなら知ってるかもしれない」
 志津子さんはアキ兄と仲のいい唯一といってもいい異性の後輩だ。
 年の離れた志津子さんをアキ兄は結構可愛がっていた。
 もしかしたらそんな志津子さんなら知っているかもしれない。
 志津子さんならば信頼できるし、話さないだろうことを期待できる。
 そういう人だ。
 私は急いで師原に電話をした。
 師原なら志津子さんの連絡先ぐらい知ってると思ったから。
『はい、もしもし、こちら師原』
 今はおどけたような師原の声にもいらついた。
「師原、あんた志津子さんの連絡先知らない?」
 私は口早に用件をいった。焦ってもしょうがないことは分かっているが相手は逃げるのだから焦りは消えない。
『は?』
 師原の間の抜けた声に私は思わず怒鳴っていた。
「連絡先よ!」
『連絡先って……何かあったのか?』
 困惑しているのが手に取るように分かる。
 当然だ。桜がいつも怒鳴るから私はあまり怒鳴る機会がなかったから驚いているのだろう。
「アキ兄が逃げたの! むかつくから追いかける!」
 私は簡単にそれだけ言った。
『ああ、でもな……』
「なんなのよ!」
 私は半分きれかかった。
 師原の師原らしくない切れの悪さが癇に障る。
『……まあ、いいか……、いいか番号言うぞ』
 師原の真剣な声に私はここで初めて不審に思った。
 そして師原が言うその番号も不思議だった。
 携帯ではない。けれどどうやら家電でもないらしい。
 私は頭をめぐらす。
 そして一つの結論に行き着いた。
「もしかして志津子さん……」
『ああ、まだ出たばかりだからこの番号繋がらないかもな。相楽っちの居場所かー……』
 師原はアキ兄の居場所のことを考えたらしいけれど、私はそれどころではなかった。
「それって国際電話じゃない!! 志津子さんがいっただなんて聞いてないわよ!」
 大体アメリカのことを聞いたのは昨日なのだ。
 師原はそれを思い出したらしく
『だって行くって言ったじゃん』
 となぜ驚くのかわからないといったように言う。
 ああ、言いましたよ。出発する前日で、しかもいつ行くかなんて聞いてなかったけどね!
「ごめん……聞く人間違えたかも……」
 師原は今落ち込んでいるはずなのだ。
 師原は嬉しさとか怒りとかそういうのは隠さないけれど落ち込むとか悲しみとかは隠す奴だから私には分からないけれど。
『は? 気にすんなよ。それより今は相楽っちだろ?』
 師原の優しい声が聞こえるが多分私の心は混乱していたのだと思う。
 思わず泣いてしまった。
 師原の言葉があまりに痛くて。
 師原は諦めていない。けれどどうすることもできない。
 私はやろうとすれば全てを捨ててアキ兄を探す事ができる。
 けれど師原は出来ない。
 優しい師原はそんな事出来ないだろう。
 全てを投げ出せる愛が最上ではない。盲目的な恋は身の破滅しか呼ばないことを子供でも知っている。
 だからこそ、師原は今電話の向こうにいるのだ。
「師原、あんたはどうするの?」
 師原は話が繋がっていないことに一瞬戸惑ったような気配が電話口から伝わる。 
 けれど私はそれにかまわずに言葉を続けた。
 そうしなければ見失ってしまう気がしたから。
 今私を押しているのは師原の想いだ。
 師原に憧れたからだ。
 だから、崩れないで欲しい。
 師原の声は優しいけれど、脆いような気がしてならなかった。
 いつもの師原だって優しいけれど、強さのようなものを含んでいた。
 私はいつもそれに憧れていた。
 師原は確かに勉強は出来ないし、お調子者で単純だけれど、それでもそのまっすぐさに憧れた。
 私にはもうない部分だと思っていたから。
 だからこそ、師原の諦めるところを見たくないのだ。
「師原、あんたはどうするのよ」
 私は質問を繰り返した。確かめるように。
『大丈夫だよ、そんな不安な声出さなくてもさ』
 私の情緒不安定に気づいたのか、師原はわざとらしいほど明るい声で返した。
『言ったろ? 俺は諦めないって。どんなに傷ついても平気だって』
 それは決意を秘めた声だった。
 ああ、そうだ、師原はそういう奴だ。
『お前はさ、ちゃんと前を向いてる。それが行きつく先なんて俺は知らないし無責任な発言は出来ねーけどさ、俺相楽っちとお前が一緒に並んでるところ好きだぜ』
「何よ、そんなところみたことないくせに」
 私は声を出してみて始めてその声が湿っていることに気づいた。
 師原はそれに触れないで、おかしそうに笑った。
『確かに二人で話したところは見たことねーよ。高校でも話さないしさ。でもちょっとすれ違う時とかお互いに意識してんのすげー分かったもん』
 まるで懐かしそうにそういう師原に私はふてくされた。
 そこまでバレバレだとは思わなかった。
 確かに私はアキ兄を意識していたのだと思う。
 何よりも、一番傍にいたい人として。
 それが恋愛感情だといえばそうかもしれないし、もっと違う感情なのかもしれない。
『相楽っち、見つけられるといいな』
 師原の声に私はどうしようもなく笑いたくなった。
 真剣な時なはずなのに笑いたくなる。
 それはきっと師原の力のせいだと思う。
「ねえ、師原。私さ、今すっごく惜しいことした気がしてる」
『は?』
「私、あんたのこと少し好きだったかもしれないわ」
 それは確実に恋愛感情じゃないかもしれないけれどそれに近いものがあると思う。
 確かに一番気になるのはアキ兄で、一番傍にいたかったのもアキ兄だけれど、一番惹かれたという言葉が当てはまるのは師原のような気がした。
『なんだよ、それ?』
 師原がおかしそうに言う。
「私さ、あんたを好きになったら幸せになれたと思うのよね」
 少なくともアキ兄のように鈍かったりしないだろうし、むやみに期待しなかったんじゃないかと思う。
『まあ、俺もお前となら楽しく付き合えたと思うよ』
 師原も話に乗ってきた。もしという話をしても意味がないことを知っていたけれど結構気休めにはなることに気がついた。
『でもやっぱりさ、俺は幸せのために志津子さんに恋したわけじゃないから結局お前じゃ駄目だったよ』
 師原は笑いながらそう言った。
「私もあんたよりアキ兄のほうが心配だから付き合えないわね」
 私も笑いながらそう言った。
 別に幸せになりたかったら他の人を選べばいい。
 幸せなんて望まない。
 今ならばアキ兄の気持ちが少し分かった気がした。
 どうしてもその人じゃなければ駄目だという気持ちが。
 今なら分かる。
「じゃあお互いにね」
『頑張ろうじゃないか』
 そういいながら電話をきった。
 志津子さんは多分知らないだろう、こうなったら。
 結局アキ兄に繋がる糸が一つ切れた。
 けれど妙にすがすがしい気持ちにもなる。
 私は再びアキ兄の居場所探しに精を出した。


 この狭い日本で完全に姿をけすことは難しいんじゃないかと思う。
 教師なんていう仕事をしているのならなおさらだ。
 それならば興信所などに行けばいいのかもしれないが、大事にしてはまずいだろう。
 お姉ちゃんにばれない方法なんてほとんどなかったと思う。
 私が思い悩んでいるとノックする音が聞こえた。
「え?」
 ここには誰も来ないはずだ。
 なのになぜ?
「穂夏ちゃん? いるのかい?」
 その声は聞いたことのない声。
 けれどなぜか涙が出そうになる。
 今はわらさえもつかみたい。
 私はそっとドアを開けた。
「穂夏ちゃん……かな?」
「あの、アキ兄の関係者ですか?」
 後から考えてみればかなり不躾で失礼な言い方だろう。
 けれどその時の私には気にする余裕がなかったし、その人もあまり気にした様子がなかった。
「ああ、そうだ。穂夏ちゃんへの伝言を預かってきたんだ。穂夏ちゃんがここにこなければ渡さなくていいって言われたけど」
「え? でも私がいつ来るかわからないのに……」
 私の困惑が伝わったのかその人はクスリと笑った。
「ああ、俺がここの次の入居者だから」
 その言葉が意味することは一つだ。
「まあ、俺がここにいれば穂夏ちゃんたちに何かあった場合暁灯にいえるだろう? 俺も住居探してたし一石二鳥ってわけ」
「……そう、ですか」
 私の声は思いっきり沈んでいた。
 アキ兄は対策万全だったらしい。
 何かあってもこちらからは連絡が取れないが、ちゃんとアキ兄には伝わるように配慮する。
 これだから神経質な男は嫌だ。
 どこにも隙がないじゃないか。
「で、これがメッセージカードなんだけど、見る?」
 私が余りに沈んでいたのか、その人は少し困ったように白い封筒をもてあそんだ。
 私はコクリと頷いて、手を差し出した。
 その人がそっとその手に封筒を置く。
 私はそれを空けて、真っ白なメッセージカードを取り出した。
 そこにはたった一言だけが書いてあった。
 それは最もほしくない言葉だった。
 その言葉を見た瞬間、頭の中が真っ白になる。


『悪かった』


 なんだ、それは!
 なんなんだ、それは!
 謝るのか! 謝るのか、あいつは!
 謝るんだったら私の前で謝れ!
 誰への言葉かすら分からない!
 怒鳴り込んでやりたい。
 今すぐ、アキ兄の傍にいって、ふざけんなといってやりたい。
 何を謝っているのか、胸倉を掴んで問いただしてやりたい。
 突然いなくなったことをか。
 それとも別の何かか。
 そして言ってやりたい。
 私は一緒にいたいのだと。
 傷ついているのはあんただけだと思うなと。
 ずっと……、ずっと好きだったのだと。
 認められない感情。
 けれど、それが少しでもアキ兄の足かせになればと思う浅ましい自分がいる。
「……どこにいるんですか?」
「はい?」
 メッセージカードを睨んでいたかと思うと、いきなり脅すような声でそうきかれたら誰でも驚くだろう。
 けれど、私は驚いているその人をいきなり睨みつけた。
「知ってるんでしょ! アキ兄の居場所! 教えて!」
 懇願するように、私はその人の服を掴んだ。
 教えてくれるまではなさないという意思拍子で、強く掴む。ほとんど縋っているといってもいいだろう。
 その人は困ったように
「ああ、でも暁灯はなるべく教えるなって……」
 と申し訳なさそうに頭をかく。
「なるべくなら教えて! お願い! アキ兄に言いたい事があるの! 直接じゃないと駄目なの!」
 私は気がついたらそう喚いた。
 喚いたのは多分初めてで、やり方なんて知らない。
 だたこねるやり方よりも押さえ込むやり方を覚えてしまったから。
 けれど、子供はわがままでいいといってくれた人がいる。
 その言葉が私をわがままにしていく。
 このまま、何もなかったことになんてしない。
 この気持ちをもう、押さえ込むことなんてしない。
 アキ兄の傍に行きたい――。
「あー、もう、俺って女の子に弱いなー!!」
 その人は頭を抱えて、小声で「暁灯、わりぃ」とアキ兄に謝った。
 いきなりのリアクションに私の目はきっと丸くなっただろう。
 けれど、その人は優しそうな目をして私にいってくれた。
 私が喉から手が出るほどほしかったものを。
「俺もたいした事は知らないけど、多分あいつは長崎にいると思う」
 思ってもない地名が嘘をついていない証に思えた。
「長崎……」
「ああ、確か小島の家を格安で譲ってもらったって言ってたな」
 敵は考えたらしい。
 確かに長崎は遠いし、小島のほうならなおさらだ。
 事実、私はこの人にいわれるまで逃走先と考えてすらいなかった。
 けれど今はそれが私に味方した。
 小さな小島ならよそ者が入ってきたらすぐに分かるだろう。
「ありがとうございます!」
 私は勢いよく頭を下げた。
 結構失礼な態度をとっていたのに親切に教えてくれるその人に対して、私が示せる誠意はそれくらいだったから。
 その人は苦笑しながら手を振った。
「いいよ、気にしないで。……あいつ、秘密主義だから何も話さないけれどあんたがあいつの助けになれば言いと俺も思うよ」
 きっと心のどこかでその人はアキ兄の真っ暗な闇に気づいていたのだと思う。
 そう寂しげに笑うその人にもう一度頭を下げて、私はその部屋を出た。
 アキ兄を捕まえるために。


 本当に貯金をしていてよかったと思う。
 お金がなかったらきっとこうしてアキ兄を追いかけられなかっただろう。
 アキ兄ほどではないけれどまめな自分に今は感謝だ。
「あんな言葉だけをおいていかれて黙ってる私じゃないわよ」
 どんなに傷ついても諦めないと決めたから。
 傷なんてたいした事がない。
 ずっと抱える苦しみよりはそっちのほうがいい。
 師原のように傷つくことは恐れない。
 お姉ちゃんのようにほしいものはほしいと主張する。
 泣きたくなるような切なさを傷に変えるために。
 私はアキ兄の元に行く。
 そして、アキ兄に――。
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