きっと貴方はこの想いを拒むでしょう。
 けれど私はそれに屈しない。
 もう、物分りのいいフリなんて出来ない。


「……いつかは来るとは思ってたが……今は確か学校が休みじゃないだろ」
「くると思ってたならいつだって同じじゃん」
「……帰れって言っても帰らないんだろうな」
「ええ」
 アキ兄は私の顔を見ると嫌そうな顔をした。
 でも私だってそういう顔をしたかった。
 長崎へ飛んで、そしてそのまま、人に尋ねながらアキ兄を探した。
 ちょっと大人っぽく見える服装とメイク。
 ちょっと同年代の子より大人びている顔の自分に感謝する。
 ついでにアキ兄の童顔にも。
 こうすれば、大抵痴情のもつれなどで人は納得するだろう。
 そしてそこで涙までを流さなくても、愁いを帯びた表情を出せば人はアキ兄よりもこっちに同情する。
 これで、易々とはいかなくても思ったよりも結構簡単にアキ兄は見つけられた。
 アキ兄のところに来た人のおかげで結構な範囲が特定できたし、交番などに行けばそれなりのことは分かる。
 それでもここまでくるのには苦労した。
 本当に探偵の人ってこういう地道な努力をしてるのねと同情してみたりもした。
 長崎なら沖縄よりも限られてくるだろうと思ったがやはり人を探すのには選択肢が広すぎた。
 桜は言い訳は得意だろうけど、長居は出来ないだろうと思う。ここに来るだけで二日かかったのだ。
 それにここまで来るのが長かった。
 探し始めたのは秋だったのに、もう冬だ。ここは南のほうだから厳しくはないけれどそれでも寒い。
「いいところね」
 私は畳が敷かれたところに正座した。どうやら座布団もないらしい。
 まだ生活必需品が揃っていないのか結構がらんとした印象を受けた。
 もちろん、アキ兄の前の部屋よりも数倍も広いからそれ以上にもののない部屋はまだ誰も住んでないといったほうが自然なほうだ。
「まあな、で、何か用か?」
 用……ね。
 実は衝動に任せてきたから口実は作ってなかった。
 作ろうと思えば作れたと思う。
 紗波さんとかが心配しているからとか。
 でも作ってしまったら楽なほうへと進んでしまうような気がしたから、あえて作らなかった。
「一番知ってるのはアキ兄じゃないの?」
 そう、そう仕向けたのはアキ兄だ。
 その気があるかどうかなんて知らない。
 けれど、けしてそれは嘘じゃない。
 アキ兄がいなかったらわたしはおそらく一生この地を踏むことはなかっただろうから。
「……どういう意味かわかんねーな」
 相変わらず嘘つきだ、アキ兄は。
 そうでなきゃそんな顔しないじゃない。
 本当に分からなかったら、アキ兄はいつも怒るじゃない。
 分かるように話せって、言わなきゃ分からないって怒るじゃない。 
 伝わるように話さなきゃ、分かってもらえないって教師面して怒るじゃない。
 そういうときだけ、自分のことを棚にあげて叱るじゃない。
 でも今はそうしない。ただ、聞きたくないという意思表示だけ。
 そういうことでしょ? 聞き返したりしないということはそういうことでしょう?
「まずはこの「悪かった」って言うのはどういう意味?」
 私は鞄の中からメッセージカードを取り出した。
 そこには確かにアキ兄の字が書いてある。
 アキ兄は苦々しい顔でそれを見る。
 確かに数ヶ月前の恥を見せられるとは思ってなかっただろう。
 アキ兄にとってこれは恥だと思う。
 いつもかっこつけて生きてきたアキ兄が初めて自分から私に見せた弱さ。
 それは私にとっては嬉しいことだけれど、アキ兄にとっては屈辱に違いない。
「で、どういう意味なの? 黙っていなくなって「悪かった」? それとも嘘をついて「悪かった」?」
「……」
 嘘というのはだいぶ前の約束だ。
 アキ兄は覚えていないだろうと思っていた約束。
 ただ、それだけが私をアキ兄になつかせた。
『俺はお前を置いていかないよ』
 その時、アキ兄はそう言ったのだ。
 それはお姉ちゃんが紗波さんと仲良くなって私を置いて遊びに行ってしまったときのことだった。
 きっとお姉ちゃんは私を置いていくという意識はなかったと思う。ただ、紗波さんや友達と遊びに行ってしまっただけ。傍にはお母さんもいたし、私をかまう必要なんてなかったのだ。
 けれどそれまではお姉ちゃんといつも一緒だった私はお姉ちゃんがいないことに気づき、探しに家を出てしまった。
 勿論子供だった私はその人がどこにいるかなんて分からなかった。
 そしあるとき、自覚する。
 私はお姉ちゃんに置いていかれたのだと。
 それが私の幼いプライドを傷つけた。
 そして私がいないことに気づいて頼まれたのか、アキ兄が迎えに来たときに
『どうせアキ兄ちゃんも私のことを置いていくんでしょ? だったら帰らない! 誰も私のことなんて心配しないんだから!』
 と駄々をこね始めた。もう少し幼い表現だったとは思うが、おおむねはこんな感じだ。
 そんな私を見て、アキ兄がめんどくさそうにするのが分かった。
 あたりまえだ、駄々をこねている子供なんて年頃の男にとってはめんどくさいものだろう。
 けれどその時の私はあまりに幼かった。
 だからアキ兄とは一緒に帰ろうとしなかった。
 その時から私は強情だったらしい。
 けれど、アキ兄は多分好きな女の頼みだからか、根気よく私を説得し始めた。
 それらの内容は覚えていないけれど、最後の約束は覚えている。
『俺はお前を置いていかない。約束する。何も言わずに俺はお前を置いていかないよ』
 そう優しく頭を撫でられた。
 我ながら単純だけど、それがアキ兄に恋をした瞬間だった。
 厳密に言うとアキ兄は約束を破ったわけじゃない。
 アキ兄は私に話した。ただ、いついくか聞かなかっただけ。ただ、決意した時にはもういなかったのだと思うのが悲しいだけ。
「結局、アキ兄は逃げたんだ」
「……そうだな」
 アキ兄はけして吸っていなかったタバコに火をつけた。
 それは、たぶん決別の証として吸い始めたのだろう。けれど、見た限りそれが成功しているとは思えない。
「謝ったのは悪いと思ったからだ。直接謝らなかったのはなにが悪いのか分からなかったからだ。……俺はお前が思っているほどお前を嫌っちゃいないのかもしれないな」
「……お姉ちゃんに似ているから?」
 私は思わずそう聞いた。
 それしか思いつかなかった。
 お姉ちゃんに似ているけれど同一ではない私。
 だからアキ兄は好きにはなれないけれど嫌えないのだ。
 だからこそ、顔を背けている。
 そう思ってたのに――。
「いや、お前が俺のあとチョコチョコついてくるから情が移ったんじゃねーの?」
 と苦笑しながら言うから!
 私はこのときほどアキ兄の顔を見られなかったことはないと思う。
 どうしてこういう事言うのだろう。
 どうしてこんなふうに馬鹿にしている言葉で私を嬉しくさせるのだろう。
 どうして、こんなにも、私は嬉しく感じているのだろう。
 私は期待なんてしてなかった。
 私はお姉ちゃんの付属物としか見てないのだと思っていた。
 だから邪険に出来ないのだと思ってた。
 なのに、何で……。
 アキ兄は鈍くて、冷たくて、それで残酷だ。
 覚悟を決めたのに、縋ってしまいそうではないか。
 一緒にいたいと思ってしまうじゃないか。
 私のことを見てといいたくなるじゃないか。
 お姉ちゃんから外されてない瞳を私のほうに向けたくなるじゃないか!
「アキ兄って鈍いよね」
 私は悔しくて、アキ兄の目を見れなくて、目の端に浮かんだ涙を見せたくなくて俯いた。
 悔しい、悔しい。
 何で私の世界はこの人を中心にまわってるんだ。
 どうして、こんな冷たい奴。
 それなのに、時々こんなセリフをはくから嫌いだ。
 卑怯だ、ずるい、人でなし!
 私は自分の持っている知識全てを使ってアキ兄を心の中で貶したけれど、それでもやっぱり傍にいたいと思ってしまう。
「馬鹿か、お前は。お前だって鈍いじゃねーか。お前に振り向いてもらいたい奴、俺は何人か知ってるぞ」
 アキ兄は皮肉った笑みで私にそういう。
 そういうところが鈍いのだといってやりたい。
「でも一番鈍いのはお姉ちゃんだよね。あんなにアキ兄バレバレなのに分からないんだもん」
 だからこれはたぶん仕返しなのだろうと思う。
 確信をつくようなまねをするつもりはないんだけど、それでも聞かなきゃ始まらないことだと思った。
 ずっとずっと、言いたかった。
 そう、その表情が見たかったの。
 アキ兄は私に対してそんな表情しないでしょ?
 私に対して、そんなに切ない表情した事がないでしょう?
 それはお姉ちゃんの特権でしょう?
「……ああ、そうだな」
 その寂しそうな顔をするのはお姉ちゃんを思い出しているから?
「ねえ、お姉ちゃんのことどうして好きになったの?」
「は?」
 アキ兄は驚いたような顔で私を見る。
 そう質問されるとは思わなかったんだろう。
 そして、暫くして再びアキ兄は煙草に口をつけた。
 ゆっくりと煙草の先が赤く灯る。
 静かにゆっくりと、灯る。
 それが落ち着かせたのだろう。ゆっくりとアキ兄の口が言葉を綴る。
「……そうだな」
 私は話し始めようとするアキ兄を凝視してしまった。
 まさか話し始めるとは思わなかった。
 適当な事を言って言い逃れするのだろうと思ってた。
 それに対抗する手までシュミレーションしてたのに!……まあ、その手間が省かれただけよしとしよう。考えてみればアキ兄が自主的に話すのが最善なのだ。
 けど今になってなんでアキ兄は話す気になったんだろう。
「これといってきっかけがあったわけじゃない。まあ、綺麗だとは思ったけど」
 昔を懐かしむようにアキ兄の目が細められる。
 それに私は気づかない振りをして、出されたコーヒーを飲む。
 それは私の心に比例しているのか、いつもより苦さが増していた。
「まあ、たいした話じゃねーよ。気がついたら好きになってた。……いや、そうじゃないな。俺は無視してたんだよ。千咲を好きだと想う心を。だから千咲が兄貴に猛烈アタックしている姿を見て可愛いと思っても、心が軋んでも無視してた。無視できなくなるまで」
 その瞳は切なさと懐かしさを同居していた。
 俺も餓鬼だったよなと過去形で締めくくったけれど、まだ、アキ兄の想いは終わっていないのに。
 アキ兄は壊死させようとしているのではないかと思う。その想いを。
 消せなくても、感じないようにさせようとしているのだと思う。
 もうアキ兄は知っているんだ。気づいているんだ。その想いはもう消せないほど大きくなっていることを。
「アキ兄は、お義兄さん……、ううん、紗波さんとお姉ちゃんが一緒にいるときは辛くなかったの?」
 私の問いはアキ兄にとって残酷なものだと思う。
 アキ兄の昔の目は一番私がよく知っている。
 私が一番アキ兄を見てたと確信を持って言える。
 紗波さんを一番見ていたのがお姉ちゃんのように、お姉ちゃんを一番見ていたのがアキ兄のように、私はアキ兄を一番見ていた。  だからこそ分かる。
 その瞳があの二人を見るときに切なげに揺れ動くこと。
 歯がゆくて、どうしようもなくて、苦しげに眉をひそめていたこと。
 バレバレなのよ。もう少し嘘の上手い人だったら、こんなこと聞く気にはなれなかったのに。
「……辛くないっていうのは嘘だな。辛かったよ。辛くないわけないんだ」
「アキ兄はいえばよかったのよ。言えばお姉ちゃんだって受け止めざる終えなかっただろうし、それでギクシャクするほどお姉ちゃんは繊細じゃないわ」
 私はぽつりとそう言った。
 それは限りなく本心に近い嘘。
 本当に変わらないなんて思っていない。
 確かにお姉ちゃんは繊細という言葉が似合わない女であるし、受け止められるはずだ、普通の想いなら。
 けれど、アキ兄の抱いている想いはとてもとても重く、儚く、受け止められるとは思えない。それほど長い時間、同じ想いを抱えていた。
 強すぎる想いは確かに狂気に近いのだと思った。
 だからこそ、アキ兄は伝えることをせずただ胸にしまいこむことを選んだ。
 それが、正解かどうかなんて知らない。
 けれど、そのせいでお姉ちゃんや紗波さんが変化しないのは一目瞭然だった。
 その代わり、アキ兄の想いはどんどん膨れ上がっていってしまったけれど。
 私は何が変わっただろう。
 いや、何も変わらなかっただろうと思う。
 その想いの中に私は含まれていなかったから。
 その時気づく。ああ、私はこの時点でお姉ちゃんのおまけではなかったのだと。
 それはアキ兄にとっては傲慢な考え方なのかもしれないと。
 お姉ちゃんに付属はいらない。そういうものを気にしない人なのだ、アキ兄は。
 ああ、今更何に気づいているんだろう。だからこの人に惹かれてしまうのだ。
「さあな、どうだろう。確かに表向きは変わらなかったかもしれないけど、確実に何かは変わったと思うぞ」
 苦笑しながら自分の入れたコーヒーに口を運ぶ。
 そういえば、アキ兄はコーヒーを入れるのが上手かった。インスタントなのに、なぜかアキ兄のは他の人がいれるよりもおいしかった。  そう思ったのはいつごろだろう。
 コーヒーを飲みだしたのは、アキ兄が飲んでいるからだった。
 いつコーヒーの味を覚えたのだろう。
 最初の頃はコーヒーなんて苦いだけの代物にすぎなかったのに。
「で、どうすんだ、今日」
 アキ兄はさっきまで過去を懐かしんでいた瞳から、現実に帰ってきた。
 そういうところの切り替えは異常に早い人だ。
「えっと、……って、ここに泊めてくれないの?」
 もう船はないし、ここに泊まるしかないと思うんだけど。
 そういったらアキ兄は呆れたように、というかどうしてお前はそんな餓鬼なんだというように、ため息をついた。
「……まあ、お前と俺が間違いが起きるわけがないということは確かだけどな」
「ちょっと待ってよ! 何でそこで起きるわけがないなのよ!」
 ちょっと怒るところを外したようだけれど、ここまできて子ども扱いは結構腹立つ。
 まあ、それは半分図星だからなのだけれど。
「あのな、お前と俺とが何かしら間違いが起きるんだったらもっと前になってるっつーの」
 アキ兄はお得意のめんどくさそうに頭をかく動作をした。
 確かに前まで夜遅くまでアキ兄の部屋に入り浸ってたんだから、起きるんだったらその時起きてるな。
「じゃあ、何の問題もないじゃない」
 私が不思議そうに言うとアキ兄は深くため息をついた。
「あのな、ここは田舎なの。お前のせいで俺はご近所さんの噂の的だぞ。それなのにお前が泊まってみろ。俺は明日には元教え子に手を出した教師になってるんだ」
「そんなの、言わなきゃ分かんないわよ。それに元教え子なら問題ないし。第一これまで私は置いていかれた恋人装ってきたから別のところに泊まったほうが変だと思うよ」
 私の答えにアキ兄は一気に世界の終わりが目前に来るような顔をしている。
 そんなに深く考えなくてもいいと思うんだけど。アキ兄若いんだし、分かってくれるわよ。
 私はそう言おうとしたが、やめといた。
 さすがにそれを言うと荷物と一緒に放り出されそうだ。
 私はどうするか悩んでいるアキ兄を横目に泊まる準備をすることにした。
 アキ兄に私を頼めるほどの人はまだいないだろうし、適当な人に私を預けるほど無責任ではないから。
 結局私はここに泊まることになるに違いない。
 本当にこういうところがお人よしだと思う。


 きっとアキ兄の心は今揺れている。いつもと同じように揺れている。
 水面に浮かぶ木の葉のようにゆらゆらゆらゆら。
 けれど、沈むこともそこから抜け出すことも出来ない。
 ただ、ゆらゆらゆらゆら、風が吹くたびに揺れるだけ。
 雨が降らないから沈まない。
 誰の手を受け取らないからそこから抜け出さない。
 ただゆらゆらゆれるその様は、アキ兄の恋心。
 諦めることを選択するか、貫くことを選択するか。
 お姉ちゃんのためにある選択肢。
 いつまでゆれ続ける、その葉は。
 もしかしたら一生なのかもしれない。
 けして本人に言わないまま、その葉を抱えて続けて。
 ねえ、でも水面にもっと多くの木の葉を浮かべてもいいと思わない?
 それが恋の泉でないのなら、私も浮かんでもかまわないと思わない?

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