「ねえ、あれって高野さんの絵じゃない?」
 そう聞こえる声に私はにんまりしてしまう。
 そうよ、そうなのよ。それは高野真理の新作なのよ。
 私だって見たときは感動したわ。
 だってそうでしょ? こんなに綺麗な絵。
 ううん、綺麗なだけじゃない。
 この絵を見ると不思議と落ち着く。自分の体の中から綺麗になっていくような、不思議な錯覚に陥る。


 私だってずっと昔は画家を目指してたんだもの。
 この絵がどんなにすごいか素人さんよりはわかるつもりだ。
 美大だって出た。才能がないのが入ってみてわかったから、せめて絵のそばにいたいと学芸員になったのだ。
 そこで、高野真理の絵に出会った。
 どこかさびしげで、美しくて、吸い込まれるような絵だった。
 その理由を知ったのはそれからずいぶん先のことだけど。


「そういえばさ、この絵の作者って未亡人だって本当かな?」
 彼女らがそう囁きあっている。
 そうなのだ。彼女は未亡人。
 だからこそ寂しさを感じるのだろうか。
 その寂しさは絵に現れるのだろうか。
 私が感傷に浸っているうちに、話はかなりよくないほうに逸れていく。
「ああ、本当らしいよ」
「だからかなー、何かすっごい寂しくない?」
「ああ、そうだよね。やっぱり幸せをなくした女が描いた絵っていうかさ」
「だよねー、でも噂によればホスト通いとかしているらしいけど?」
「うわー、なにそれ? なんか旦那さんがかわいそー」
 おまえらがなにそれだよ!
 これが学芸員の立場じゃなかったら絶対怒鳴っていた。
 たしかに彼女のホスト通いは有名だ。
 けれど、それと彼女自身の性格などは関係ないものだと私は踏んでいる。
 だってそういうことって絵に表れやすいじゃない。
 彼女の絵はまだ死んでしまった旦那さんのことを思っているように思える。
 忘れなければいけない。けれど、忘れられない思いが募っているような絵なのだ。
 それをてめーら、まるで高野さんが男好きみたいに話しやがって。
 憧れの人を馬鹿にされた怒りに身を震わせていると、そこに
「こら、やめろよな。こういうところでそういうこというの」
 と連れらしき男がそのこたちを叱っていた。
 えらい! 誰だか知らないけど!
 良くぞそういうことを言ってくれた!
 私だったら立場上「静かにしてください」しか言えないから!
 ありがとう、青年! 私の心は晴れたわ!
 と思っていた矢先
「あのお姉さんみたいな熱烈ファンに殺されちゃうよ?」
 などということを言ったのだ。
 しかも私のほうを指差して。
「は?」
 思わず間抜けな言葉が出てしまった。
 な、何を言い出すのよ、私とあなたは初対面でしょ!?
 ほら、女の子たちも不思議そうな顔してるし!
「あの、何かございましたでしょうか?」
 思わずそう聞いてしまったのだ。
 もちろん私は米神が引き攣るような感覚に陥っていた。
 私の賞賛を返せと正直思っていた
「だってあんた、この子達のこと殺しそうな目で見てたじゃん」
 ただお客様だから殺さなかっただけでしょと、純粋無垢な目で言うのだ。
 このときの私の気持ちがわかるだろうか。
 ごめんなさい。お母さん。私は首になっても叫びたい。
「あんた、そんなこと言ってこの美術館の評判が下がったらどうしてくれんのよ!」
 私は自分の名誉よりも美術館の名誉、ひいては高野真理の絵の評判のほうが大切だ。
 ただでさえ作者の噂は尾ひれがついているとはいえ、いいとはいえないのだ。
 人間はそのものではなくその周りのものさえも評価に入れてしまう。
 この作品は人の目に触れるために描かれたもの。
 なのに、私の目つきのために悪い評判がたってほしくないのだ。杞憂であったとしても。
 けれど、私はそのとき頭になかった。けんかしては意味がないと。
 翌日、美術館は客に喧嘩を吹っかけた学芸員がいるという噂とともに私を放り出した。
 気に入ってたのに私はあの男のせいで首になったのだ!
 たとえあの男だけが悪いのではないとしても、私はあの男顔だけはもう二度と見たくなかった。


「なあ、まだ怒ってるわけ?」
「うるさいわね。あんたのしたことは一生恨み続けるって決めたのよ」
 私はその後地方の美術館に拾われた。
 もともと学芸員が少なかったため、すんなり採用になることになった。
 あのにっくき男とともに。
「大体あんた、何で私と同じところにくるのよ」
「だって、俺あんたのこと気に入ったもん」
 あの時自己弁護じゃなくて美術館のことを先に言った過激なあんたをね。
 そう笑う男は相変わらず純粋そうな目をしている。
 きっと、こいつはそれを知っているのだろう。話をするときに目をはずした事なんてない。
「お生憎様。私は恋人なんて要らないわよ?」
「絵を愛しているから?」
 くすっと笑った男をにらみつける。
 私はむっと睨み返したが、にやりと笑って見せた。
「ええ、そのために男は邪魔なんだもの」
 実際、大学生のころは絵が恋人でいたいと公言していたほどだ。
 そして男は、何かにのめりこんでいる女は倦厭するらしく美大に入ってから彼氏を持ったことはない。
 けれどそれがさびしいと思ったこともない。
 恋人なんていなくても絵と友達がいれば、そのことが寂しいなんて思わなかった。
「だから無駄よ? 絵を愛した女に恋するほど馬鹿じゃないでしょ?」
 まさに馬鹿にしたように笑う私に、その男は笑いかけた。
「馬鹿で結構。絵を愛した女を愛していけない法律なんてないでしょ? だから別に俺を止めないんじゃないかなー」
 そうだったら画家は全員一人身さ、と優位に立つものの笑みで笑っている。
 んなこといったっていつかはきっと離れるに決まっている。
 そう決め付けて、私は待った。
 この迷惑極まりない、むかつく男が目の前から去る瞬間を。
 それがあったかなかったかは神のみぞ知る。


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