片翼の恋


1
「そろそろ出るか?」
ベットの中の香夏子に拓海はそういう。
香夏子は目をこすりながら拓海の顔をぼんやりと見つめた。
「……今何時?」
「7時。そろそろ家、やべーんじゃねーのか?」
「う〜ん、大丈夫。今日お母さんもお父さんも遅く帰ってくるから」
香夏子は拓海のほうを見ながらうれしそうに笑う。
拓海はその顔を見て、どきりとした。
香夏子は、拓海よりも五歳も年上だ。
勿論これが本気でないくらい香夏子も拓海もわかっているはず。
一回きりの行為としてお互い了承済みだ。
それくらいわかっている。
大学生の香夏子には恋人がいたし、拓海はそいつと香夏子を取り合おうと思わない。
「じゃあ、俺、行くから」
拓海は香夏子のほうを極力見ないようにしながら帰り支度をし始める。
香夏子はクスクスと笑いながら
「いいけど、本当なら男は女を待つものよ」
とタバコをくわえ、火をつけた。
煙が拓海のほうへ流れていき、拓海は顔をしかめる。
「ラブホじゃないんだから、一緒に来たわけじゃないのに一緒に出るのは不自然だろ?じゃあ、彼氏によろしく」
と、戸を開ける。
所詮、たいした付き合いもない。ただ、お互いが似たもの同士であるだけだ。
つまらない人生。つまらない自分。
香夏子はそれを理解して、拓海に近づいた。
友人でもなく、恋人でもない。ただ、一緒にいてましな奴。
それだけの関係。
でも、拓海にはそれだけの関係のほうがありがたかった。
今日のことだって勢いにのっただけで、きっと二度とない。
そのほうがお互いにいい。
香夏子にだって香夏子の生活がある。拓海みたいな子供がそばにいるだけでありもしない噂が流れるのだろう。
そして拓海には――――。


「拓海、あんたちょっと買いものいってきてよ。お母さん、醤油買うの忘れててさ」
「……兄貴に頼めよ」
「まあまあ、いいじゃない。どうせ暇なんでしょ?」
拓海の母はそう笑いながらちゃちゃとフライパンを振る。
こんな風になれたのはいつぐらいだろうと拓海は母の後姿を見ながら考えた。
彼女と母子関係になったのは今から5年前くらいだ。
彼女は最初のほうは遠慮ばかりしていた。
だからこそ、家が窮屈でたまらなかった。
そんな時、拓海は彼女に会った。
背筋をぴんと伸ばしていて、美しい髪をひとつにまとめている人。
拓海より小さいくせに大きく見せようとがんばっている人。
そんな彼女を見るのを拓海は好きだった。
彼女がいたからこの母親ともうまくいっている。
そう確信したほど、彼女は拓海に影響力があった。


『森下君』


そう呼ばれるたびに舞い上がる自分を知っている。
そう呼ばれるたびに自分の鼓動が激しく打つのを知っている。


なぜ彼女なのだろう?

なぜ彼女でなければならないのだろう?









なぜ他の女ではだめなんだろう―――――







拓海は醤油を手に取り、愛想のいいおばちゃんにお金を払う。
(普通、男がこういうの買うのって一人暮らしぐらいだよな)
そう思いながら来た道を急ぐ。
こんなところを間違っても友達なんかに見せられない。
しかし急ぎすぎたためか、そばに人がいることに気がつかなかった。
何かにぶつかったかと思うと、次の瞬間「キャ!」という女の子独特の悲鳴が聞こえる。
そして次の瞬間には拓海はしりもちをついていた。
(――いって〜!!相当強くぶつかったな)
とりあえず謝ろうとそのぶつかってきた奴を見ると……。
「……あれ?もしかしなくても森下君?」
「……相沢……」
その人物は拓海の同級生、相沢 宇美だった。
「へえ、珍しいね、どうしたのいったい?」
宇美は不思議そうにそう聞く。
そういえばここが商店街だったって事に拓海はいまさらながらに気づいた。
「俺は母親に買い物頼まれたんだよ。お前だってそうだろ?」
拓海が顔をかすかに赤くしながらぼそぼそという。さすがに同級生には会いたくなかった。
宇美はそういうことを言いふらすタイプじゃないからその分幸いだった。
おそらく恵美子あたりが見たならこのことは学校中に知れ渡っているだろう。
こんなたいしたことでなくてもだ。
「相沢、お前は?」
拓海がそう聞くと宇美は自分の持っているビニール袋を掲げて見せた。
「私は夕飯の買い物。お母さんは夜遅くにならないと帰ってこないしね」
「って事は相沢が作るわけ?」
拓海がそう聞くと宇美はこくんと頷いた。
たしかに宇美はクラスの中では家庭的なほうにはいると思う。(というかクラスの女子大半が調理実習のときに慌てていたのを知っているからだが)
でもそこまでしているとは思えなかった。
そういえば恵美子が
『相沢さんって料理がうまいんだよ』
っていっていた気がする。
「へえ、すげーじゃん」
拓海が当然のように当たり障りのない褒め言葉を口にする。
「そんな事ないよ」
宇美も当たり障りのない謙遜を返す。
「だって恵美子の奴なんて料理なんてしたところ見たことねー」
「……それって笠原さん?」
宇美は何かそこに意味ありげな言葉で聞き返す。
拓海はその言葉に含まれている意味を十分に知っていた。
「ああ、知らなかった?俺とあいつって幼馴染」
拓海は宇美は知っているだろう事をわざと口に出す。
拓海と恵美子が幼馴染なのを同じ学校で、しかも同じクラスの宇美が知らないわけがない。
案の定、宇美はまたこくんと頷いた。
「知ってる。笠原さんって森下君のことが好きだって噂になってたから」
宇美の答えに拓海は苦笑をもらした。
「ああ、両想いやら、付き合ってるやらの噂は小学生の頃からたってるけどな」
宇美はその答えにかすかに笑う。それは笑ったうちにはいらないくらいの小さな笑みだったけれど。
「そうね、仲がよさそうだもんね」
「言っとくけどあれはデマだぞ。恵美子だって先輩のことが好きなんだからな」
「うん、それも知ってる」
拓海が絶句したのを見て、宇美は少し困ったように笑った。
「だって、女の間じゃそういうのは結構入ってくるもの。別に関係ない人でもね」
「俺は女のそういうところが分からん」
拓海が憮然とそういうと、宇美も少し考えて
「男の子達だって好きな女の子に興味あるでしょ?それの延長戦って感じかな?それにそういう秘密を共有することで友情の結束を固めているのかもしれないし」
と答えた。
「それって……全員知っているのに秘密?」
「さあ?」
「……変な奴」
拓海が本気で不思議そうな顔をするのを見て宇美は少し微笑んだ。
拓海から見る宇美は幼馴染の恵美子とは正反対の位置にいるような気がしていた。
恵美子はよく笑い、よく怒る快活な奴だ。
しかし宇美はあまり感情を表に出さない感じがした。
宇美はいつも窓際の席で、本を読んでいる。友達に話しかけられれば喋るが、自分からはあまり喋らない。
今、こうやって拓海と喋っているのも、ただ偶然あったからだろう。
しかし、予想に反して宇美は拓海をあまり怖がったりしない。
クラスの奴らが
『相沢さんっておとなしくてまさに深窓の美少女って感じだよな〜』
と言っていたのを聞いて以来、ずっとそのイメージが先行していたのか拓海のなかで宇美は男慣れしていないイメージがあったのだ。
しかしよく思い出してみれば、宇美はこわもての男子とも平気で喋っていたようなきがする。
たとえば、クラス一の悪といわれている岩本。
彼が宇美に話しかけるところを見かけたことがある。だいたいの女子や大半の男子は岩本に近づかないのに、だ。
それも脅されているわけではないらしいし、自分と恵美子のように幼馴染でもないらしい。
(まあ、どうでもいいことだけどな)
彼と彼女の問題なんて拓海には関係なかった。
知ったところでなんになる?どちらもただのクラスメートだ。
まあ、クラスの奴等は知りたいと思うだろうが、拓海はそういうことにあまり興味を抱かなかった。……自分の感情のことで精一杯だった。
「でも私から見ればあなたのほうが変な奴だわ。どうして好きな人がいるのに他の人と寝るの?」
「……は?」
拓海は一瞬宇美の言っていることがわからなかった。
というか理解するのを拒否した。
「ああ、あなたがOLさんとホテル街に入ってくのを見かけたから。あの時、あなた、周りを気にしてたからそうかなって思っただけ。言いふらしていないから安心して?でも気をつけてね。あそこって見えないようで見えやすいから」
宇美は拓海の驚愕の意味を履き違えてそういう。
拓海が驚いているのはそこではない。そりゃ、香夏子と一緒にいるところをみられたのはまずいがそれよりも――。
「……好きな人ってなんだよ」
拓海はあまり感情を出さないように聞いた。
しかしそれはうまくはいかない。どうしてもおそれてしまう。
拓海は大丈夫だと自分に言い聞かせる。
自分はばれないようにやってきた。誰にもばれていないはずだ。
そうだ、宇美は勘違いをしているに違いない。そうに決まっている――。
拓海はそう思い込もうとした。
けれど、事実は残酷で。




「恵那川先生に決まっているじゃない」



もうすでにばれていた。
頭の中がグワングワンと音を立てて鳴り響く。
震える手足、急速に早まる鼓動。
天と地がひっくり返る感覚。

ばれている、ばれている、ばれている!

たった一人で暖め続けていた想い。
誰にも打ち明けられなかった想い。
誰にも触らせたことのなかった想い。
それが今、崩れ去ろうとしているように拓海は思えた。
そこで否定すればよかったのかもしれないが、拓海にはそう考える余裕はなかった。
とにかく何も考えられなくて、口がからからに渇くのを感じる。
立っているのも辛いほど頭がぐらついた。

気がつくと宇美はもうすでにそこにはいなくて、拓海はたった一人突っ立っていた。

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