片翼の恋


15.
拓海は宇美に言われたことを思い返していた。


『私にできないことをしてよ』


そういわせたのはたぶん拓海だ。
なぜこうなったかなんてわからない。
けれど、彼女はきっと泣きたかったのだ。
でも泣いてしまえば拓海が後悔していると思っても仕方がない。
だから泣けなかった。
泣くことはせずに一生懸命前を向いていた。
拓海を見つめていたのだ。涙を隠した瞳で。
それに報えなかったら宇美が拓海を呼んだ意味がない。
拓海は決心すると拓海は音楽室に入った。
そこにはたった一人がピアノを弾いている。
拓海は知っていた。
ここに誰がいるのかも。
どうしてピアノを弾いているのかも。
本人に聞いていたから。
あれは初めて拓海が好きだと実感した日だった。


「何で先生、一人でピアノ弾いてるんですか?」
拓海がそうきくとピアノを弾いていた手が止まった。
その目に拓海が映るとかすかに微笑んだ。
「森下くん……だっけ?」
この頃はまだ選択科目がなくて、知っていなくても当然だと思っていた。
だから、名前を呼ばれたことには純粋に驚いた。
「だってあなた、時々音楽室を覗きにくるでしょ?それで気になって……」
なるほど。
拓海はなぜ恵那川先生が自分を知っているか理解した。
確かに何度かその姿を見に来たことがある。
それはピアノを弾く先生がひどく絵画的で、現実感がなくて、それが気になったから。
しかし、それを口にだすことなく理由を作る。
「ああ、俺も少しピアノが弾けるんでちょっとよってみただけです」
それは本当。
音楽が好きだった母親から習わせられたピアノ。
それが嫌で嫌で仕方がなかった。
男なのにといわれてからかわれたこともあった。
ピアノなんて弾けたってからかいのネタになるだけだと思っていた。
けれど、母親が弾くたびに喜ぶから。
だから嫌だとはいえなかった。
そんな嫌悪の対象をたった一人で弾く女。
いくら音楽教師だってそう毎日弾きに来る理由がない。
なのになんでこの人はたった一人で弾いているのだろう。
「で、何でピアノを一人で弾いているんですか?」
拓海は質問を繰り返した。
恵那川先生は少し首をかしげて
「好き……だからかな?」
と笑う。
その笑みは印象的で、思わずじっと見つめてしまった。
「私ピアノがすっごい嫌いだった時期があったの。もうやめてしまおうと思ってたのよ。でもね、そのピアノを好きだって言ってくれる人ができたの。だから今はピアノが好きなの」
そういう彼女の目には拓海は映っていない。
それがひどく不安で、ひどく不愉快で。
「じゃあ、それが先生の彼氏?」
聞いた後でしまったと思った。
詮索するつもりはなかったのに。
ただ、ピアノを弾いている姿を見ていたかっただけなのに。
恵那川先生は目を丸くして拓海を見つめた。
そしてフッと綺麗に笑う。
「やだ、きになる?」
そういわれるとなんとなく照れくさくて。
拓海は無意味に大きな声で反発した。
「別に、言いたくなければいいんですよ。先生が誰と付き合おうと俺には関係ないんだし」
言ってみてそれが当たり前だと気づくのに時間はかかった。
確かに関係はない。
でも知りたい。
知りたくない。
相反する感情。
それが拓海の胸にざわめく。
「そうね、確かに関係ないけど、気になるんでしょ?いや〜、私も生徒に気にされるとしになったかな〜」
恵那川先生は拓海がそうおもっているとも知らずに恵那川先生は照れたように笑う。
拓海は自分の心を相手に感知されまいと必死で普通を装う。
「相手が不憫だなって思っただけだよ」
「あ、なにお〜。その人だってね、私の事を好きって言ってくれているんだから」
「……先生、自分で言ってるじゃん」
「……あ……」
拓海は不意に泣きたくなる。
何で自分は笑って会話しているんだろう。
さっさと帰ればよかった。
聞かなければよかった。



聞かなければこんな想いに気づかなかったのに!



気づいてしまった。
なぜあんなに惹かれていたのか。
なぜこんなにも心苦しいのか。
これは憧れなんていう綺麗なものじゃない。
憧憬という柔らかいものじゃない。
言い表すことができない想い。
それは抱いてはいけないもの。
ましてや相手には愛する人がいるのに……!
その人にさえ憎悪を覚える。
「あ、俺そろそろ行きます」
もう限界を悟った拓海は精一杯の笑顔で恵那川先生にそう告げる。
「あ、あの話は内緒ね。婚約者にも話してないの」
唇に指を当ててそう微笑む彼女。
そのしぐさに、頭の芯が揺らぐ。
そしてその言葉に打ちのめされる。
この想いは表に出してはいけない想い。
そう思っていた。
どちらにとっても出さないほうがいいに違いないと。
表に出さなければいずれは消えてしまうと思っていた。
けれどその想いはぜんぜん消えなくて。
逆に大きく膨らんでいくばかり。
音楽を選択したのも、楽な事もあったが恵那川先生が顧問になるのではと無意識に期待していたからだ。
どうしようもなかった。
どうしようもなく、惹かれた。
そして収拾がつかなくなりそうになったときだった。
そんなときに宇美に気づかれたのだ。


「先生、話があるんですけどいいですか?」
拓海は一人で音楽室にいる恵那川先生に声をかけた。
恵那川先生が一人でピアノを弾いていることを知っているのは拓海だけ。
そのことが誇らしかったのを覚えている。
ちょくちょく遊びにも来ていた。
ただ見つめているだけでうれしかったから。
ピアノを聴いているだけで幸せだったから。
けれど、それも今日で終わりだ。
うれしかったけれど、幸せだったけれど、苦しかった。
どんどん膨らむ想いで押しつぶされるかと思った。
それも今日で終わりだ。
「いいわよ?なに?」
恵那川先生はにこっと笑ってきく。
さあ、勇気を絞れ。
拓海は自分を励ます。
宇美に顔を見せるためにもいわなくてはならない。
そうでなければ宇美と並んでいる資格がない。


「俺、先生のこと好きだよ」


さあ、勝負だ。
back  top  next
inserted by FC2 system