片翼の恋



誰が予想しただろうか。
俺が誰にもいえない恋をすることを。
きっと誰も予想できなかったに違いない。
だって俺は……恋の魔法なんて信じちゃいなかった。
それはきっと……今も同じだ。

拓海は部屋にいても聞こえる母の鼻歌を聞きながらぼんやりと考えた。
どうしてこの人は自分の母親になったのだろうと。
いや、なれたのだろうと。
本当の母と呼ぶべき人は、もうすでにここにはいない。
死んだわけではない。
そっちのほうがよっぽど良かった。いなくなる理由ならそっちのほうがましだった。
彼女は男と逃げたのだ。
なけなしの預金通帳を持って。
そして、自分と父は捨てられた。
彼女の作った何百万の借金を肩代わりさせられて。
それ以来、拓海は恋愛なんてものは信じられなかった。
見た目からは、仲の良かった夫婦があんなに簡単に別れられては、信じられないのも無理はないだろう。
それから母には会っていない。
時々思い出したように電話があるが、拓海はそれにでようとはしなかった。
どうせでても、ろくな事がないのだから。
そして暫くしてから、父は「今日から拓海のお母さんになる人だ」といって一人の女性を連れてきた。
拓海は心底父に呆れた。
何でいまさら再婚なんてするのだろう。
母で懲りたのではないのかと。
拓海の兄は素直に彼らを祝福したが、拓海はなんとなくそれに反抗した形になった。
反対はしないが賛成もしない。
どうせこの人も必要があれば自分達を捨てていくに決まっていると思っていた。
その頃から拓海の女性関係は荒れていた。
決まった女性はいない。ただ、一回きりのセックス。
それの繰り返し。
それが減ったのはいつだったか。
拓海はその時期を明白に覚えていた。


そう、恵那川 美緒に会ってからだ。


魅力的かと聞かれれば、「まあ、いい先生だと思うよ」で終わるくらいだろう。
恋愛対象というよりは、「近所のお姉さん」みたいなタイプだ。
頼りになり、彼女を好いている生徒は大勢いるだろう。
拓海も昔はその中の一人だった。
彼女には生徒にとって女性として確立されていないのだ。
けして男勝りなわけではない。親身になって相談に乗る態度や、時々香る甘い匂いは女性特有のものだ。
けれど、それ以上のものはない。
しかし、拓海は彼女に惹かれていると感じた。
恋愛感情をいつしか持っていることに気づいた。
彼女はいつの間にか「先生」ではなく「女」になっていた。
そして気づいた。
父はおそらくまだ傷がいえていないのだということに。
まだ、元母を愛しているのだということに。
なんという皮肉だろう。拓海は父が母を愛しているのだと思っていた。元母を憎んでいるのだと思っていた。
けれど、自分が恋してみるとそうではないことが分かってしまった。
今までギクシャクしていた関係の母にたいして初めて感情をいだいた。
どうして彼女はそれを知っているのに母であり続けるのだという怒り。
彼女のようなすぱすぱした性格だと、きっとそうはならないはずなのに。

前、それを聴く機会があった。
そのとき彼女はこういったのだ。
「確かに洋二さんは麗子さんを愛していらっしゃるわ。けれど私はかまわなかったの。たとえ、友情で結ばれても、同情で結ばれても洋二さんのそばにいられれば。……恋愛ってね、結構しつこいのよ。ごめんね、こんなお母さんで」
そういっても、彼女は背筋を伸ばしたまま、まっすぐと拓海を見ていた。
その想いが誇りであるかのように。
拓海には母の気持ちがわからない。
けれど、それでも感じることはできる。
そして、恋は一人でも成り立つのだと知った。
一方通行でない恋など、世界にどのくらいありえるのだろう。
もしかしたら全てが一方通行なのかもしれないと思えた。
どんなに思いあっても、完全に相手に伝わることなんてないのだから。

ふと、今朝の宇美の様子を思い出した。
なんとなく元気がなかったように思える。
(兄貴となにかあったのか?)
拓海は宇美が他人のように思えなかった。
それは、拓海の想いを宇美が知っているからなのか、宇美の思いを拓海が知っているからなのかわからなかったが。
ふと、思いたって連絡網を広げ宇美の家の電話番号を探す。
そして、携帯から番号を押す作業をして呼び出し音を聞きながら、
(なにやってんだ……俺)
とひとりでつっこんだ。
携帯ではなく自宅の電話にかけているなんてかなり怪しい。
しかも今は夜中だ。
(一回きったほうがいい、何の用事もないのにかけるなんて迷惑にしかならない)
そう思いながらも拓海は切ることができない。
なぜだろう、今かけなければならないような気がした。
それは虫の知らせのようなものだったのかと後にして思うことになる。

『……はいもしもし、江川、じゃなかった、相沢です』

女性の声。
最初は宇美の姉妹かと思ったが、言い直したからそれはないだろうと頭の片隅で思う。
心臓が高鳴っていく。
いいようのない不安が浮かび上がる。
拓海は声を振り絞るように必死で出した。
「あの……森下といいますが宇美さんはご在宅でしょうか」
まるで機械のようだと拓海は思った。
しかし、急に声が華やかさを増すように
『はい、少々お待ちください』
とトーンを高くして電話口の女性は言った。
そして暫く待つと、小さなあの声が聞こえてくる。
『もしもし?』
「あ、あの、森下だけど」
『……森下君だったんだ。いとこが「彼氏から」しか言わないから誰かと思った』
良かった。
拓海は一瞬そう思った。
宇美の兄の彼女だと一瞬頭をよぎった考えを拓海は頭の中から追い出す。
それが当たってなくてよかったと安堵する。
向こうにもその気配が伝わったらしく、クスクスという笑い声が聞こえた。
『彼女はお兄ちゃんの彼女じゃないわ。だから心配御無用』
「……まあ、心配したのは事実だよ」
拓海は自分の顔が熱くなっているのがわかる。
余計な詮索をしてしまった。
宇美がそばにいなくて本当に良かったと思った。
『でもそっちのほうが良かったかもね』
宇美は声を静めていった。
「え?」
拓海は最初なんていわれているかわからずに聞き返す。
宇美は少しやけになったように
『いとこが彼女だったらましっていったのよ』
と繰り返した。
拓海はそのとき気がついた。
宇美の声が少しかすれていることに。
「お前、なんか声変だぞ?」
拓海が心配してそういうが、宇美は話すのをやめない。
『だってそうでしょ?いつかそういう日が来るの。それなら知らない誰かよりそっちのほうがましだわ』
「でも……」
『私がその位置につくのは百万分の一もありえない。それならお兄ちゃんの彼女は私が知っている人のほうがいい!たとえ、男でも動物でもいい!そっちのほうがましかもしれないわね!だっておんなじ女じゃないだけ、嫉妬しなくてすむじゃない!……私が一番近い女だって、思うことができるじゃない……』
「……相沢……」
こんなに感情的だったろうか、宇美は。
いや、宇美はこんなふうに感情をあからさまにしない奴だ。
それが醜い感情ならばなおさら。
相当、精神不安定だ。
(いったいなにがあったんだよ)
拓海がそう思っても、何もわからない。


『……なんで、兄妹なのよ……』


そう言い残して、電話の外で鈍い音がした。
何かと何かがぶつかった音。
「相沢?」
何も反応しない宇美にこえをかける。
しかし、向こうからは何も音がしない。
「相沢!相沢!おい、聞いてるか!?何か言えよ!相沢!」
拓海は必死で宇美の名前を呼ぶ。
しかし応答はない。
受話器の中から、ドアが開く音が聞こえた。
そして開けただろう人物が宇美の名前を呼んだ。

『……宇美!!』

拓海は、その声を聞いてこの人が宇美の兄なのだと混乱していた頭で思った。


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