片翼の恋 6 「ただいま……」 いつもどうり、誰も返されない挨拶。 宇美はただ靴を脱ぎ、自分の部屋へと向かう。 そして、制服を脱ぎ、楽な格好に着替えた。 そしてそのままリビングへと降りていく。 なにげなく、電話のほうを見るとそこには一件のメッセージ。 「……」 何気なく押す、再生ボタン。 どうせ両親のどちらかだと思っていた。 けれどそれは予想もしなかった、あの愛しき人の声。 『えっと、今日は飲みに行くので遅くなります。宇美、あんまり遅くまでおきてんなよ!』 突然流れる愛しい人の声。 その声を聞いただけで心臓が高鳴る。 (今日はお兄ちゃんいないんだ) なんだか悲しいようなほっとしたような気持ち。 (まだ大丈夫) 宇美はそう自分に言い聞かせる。 まだ大丈夫だ。まだ隠し通せる。まだ、兄妹でいられる。 そう自分に言い聞かせないと、壊れてしまいそうだった。 だからこれは呪文なのだ。 妹でいるための呪文。 でもこの呪文の効き目はいつまでだろう。 明日? 明後日? 一年後? それとも、永遠に効き目は続く? ふと、宇美は拓海のことを思い出した。 今日も拓海は知らない女の人の隣で眠るのだろうか。 拓海はもしかしたら忘れたいのかもしれないと宇美は思った。 自分が叶いもしない恋をしているのを忘れたいのかもしれない。 たったひと時でも忘れたいのかもしれない。 「……たまにはそういうのもいいかもしれないね」 この前まではそれは辛くなることだと思っていた。 けれど、それは自己防衛にすぎないのかもしれない。 ……でも宇美は自分にはできないことだと知っていた。 「だって、仕方ないじゃない。毎日顔をあわせているのに。そのたびに後悔するなんて……私にはできない」 拓海が羨ましいとも思った事がないとはいえない。 だって、拓海は万に一つの可能性はあるのだ。 想いの伝わる可能性がある。 けれど、自分にはそれはない。 たとえ伝わっても、どこかに綻びができてしまうだろう。 今でさえ母や父の顔を見るたび罪悪感が芽生えているというのに。 そして再び留守電にしたとき、タイミングよく電話が鳴る。 どうせ何かのセールスか、父か母だろうと思った宇美はその受話器を取らなかった。 そして切り替わる留守電。 『あの、桐下と申しますが……』 一瞬誰だろうと宇美はぼんやりと記憶の波にとらわれる。 そして…… (ああ、お父さんの愛人二号さんか) 宇美は本当に自分の血が汚れているように思えた。 愛人を何人も作り、家には寄り付かない。そしてたまにかえってくれば母を虫けらを見るように見つめる父。 それを黙認していて、仕事一筋に生きて、そして子供を我が子としてではなく自分の装飾品としてしか見ない母。 そして、兄を愛してしまった宇美。 宇美にとって一番綺麗だったのが永輝だった。 永輝をを見ていると自分まで綺麗になっていく気がした。 それ以上に汚れている気もした。 相反する感情。 けれど、どちらも同じところに入っている。 きっと兄は蝶。自分は蛾。 幼虫のときは同じでも、成虫になったら違う生き物。 だから蛾は蝶に憧れ、嫉妬する。そして恋をしても、きっと見向きもされないのだろう。 宇美にとって恋する前の永輝は羨望の対象であり、そして嫉妬の対象だった。 頭がよく、人から好かれている永輝。 いつも、父と母が褒めるのは永輝。 宇美には褒められた記憶などない。 ただ、宇美がしがみついていただけ。 しがみついて、自慢の娘であれば褒めはされなくても貶されることもなかった。 認めてもらえればそれでよかった。 永輝はそんな宇美にも優しかった。 その優しい手が宇美は好きだった。 それがいつ恋愛感情に変わったのかを宇美は知らない。 ずっと前からそうだったようなきもするし、つい最近のような気もする。 「私と森下君、どっちが幸せなんだろう?」 つい、でてしまったセリフ。 万に一つでも可能性のある拓海か、それとも一生切れない兄妹の絆で結ばれている宇美か。 そんな事、どう考えたってわかるわけはないけれど。 だってそんなの、本人じゃなくては痛みなんてわからない。 そんなの幻想でしょと他人は終わらせられる感情だから。 きっと、本人しか痛みを知らない。 それでも、似ていると思ったのはなぜ? 自分と拓海が似ていると、なぜ思ったのか。 「わかるわけないか……」 叶わない恋をしているからだと最初は思った。 けれど、叶わない恋をしている奴なんてきっと世界中に何人もいるに違いない。 それに向こうには可能性がないわけではないのだ。 もしかしたら恵那川先生が拓海の事を好きになるのかもしれない。 そうでなくても、想いを受け止めてくれるかもしれない。 たとえ1%でも可能性が残されている拓海と可能性のない宇美。 それは天と地ほどに違うものなのになぜ似ているなんて思ったのか。 (――もし、彼の恋が叶うなら、そのとき私はどうなるんだろう) そのときはもしかしたら羨ましがるのかもしれない。 喜ぶのかもしれない。 けれど、もしかしたら、絶望するのかもしれない。 結局一人なのだと思い知らされて。 そうなってみなければどうなるかなんてわからないけれど、なぜかそう思った。 自分だけ取り残されていく、そんな感じ。 でも、そのときは祝福したい。 一度でも甘えていいといわれたのだから。 手を差し伸べてくれたのだから。 どんな気持ちで拓海がそう言ったのかはわからない。 けれど、きっとその言葉は宇美にとって救いだった。 一人でがんばらなくてもいいという励ましだった。 だから、応援したい。 拓海の恋は万に一つの可能性なのだと信じたい。 そしてかなったときは花を抱えて祝福しよう。 相手が自分にそうすることはないけれど……。 「何で気づいちゃったんだろう」 こんな闇の中で一人だったからなのか、宇美は拓海とは決定的に違う点を見つめてしまった。 ああ、失敗したと思った。 気づかなければ、まだ普通の顔をして明日拓海に会えたのに。 宇美はその日、闇の中、自分のベッドに少しだけ涙をこぼした。 翌日、宇美は憂鬱そうな面持ちで昇降口に立った。 自分があんなに弱いとは思いたくなかったけれど、結構どろどろした思考で考え続けていたのだと思う。 はっきりいって、昨日の思考のせいであまり拓海には会いたくない。 学校に行くのも億劫だった。仮病でも使ってやろうかと思ったが、今日永輝が休講だといっていたのを思い出してやめた。 はっきりいって、最近は近くにいるのも辛くなっている。 それに永輝は普段でも結構過保護気味なところがあるのに、病気だなんていったらどうなるか。 きっと一日中そばにいて「何かほしくないか」とか「きぶんはどうか」とか聞いているのだろう。 それはかなり精神状態によくないような気がする。 一日中拓海を見ずに過ごしたかったが、それは今日拓海が休まない限り不可能だろう。 こういう時クラスメイトというのは不便だなと感じた。 しかし、もともと接点の少なかった自分たちなのだから気をつけてさえいれば関わることはないだろうと楽観していた。 しかし―― 「おはよう」 なぜこんなときに会ってしまうのか。 いつも下駄箱で会うことなんてないのに。 いつも、教室で姿を見かけるだけなのに。 「お、おはよう」 口ごもりながら返事を返す。 自分の負の感情に気づかせたくない。 ただでさえ、自分が泥だらけのようで嫌なのに、それを他人に見せられるほど宇美は強くなかった。 そして、さっさと自分の上靴を取り出して先に行こうとする。 けれど、それはできなかった。 「……お前、今日はなんか変じゃないか?」 何で人は知られてほしくないことほど、気づいてしまうのだろう。 「……別に」 宇美は実は図星だということができるわけもなく、ただそう答える。 「兄貴のことか?」 拓海は声を潜めてそう聞いた。 宇美は首を振るだけの動作で否定する。 拓海は納得がいっていないようだったが、 「まあ、なんかあったら言えよ」 といいながら教室へ向かった。 宇美は拓海の言動に少し顔を赤らめて 「なるほどね」 と呟いた。 そういうことが甘えるということなんだと宇美は思う。 宇美は少しさっきの思考を反省した。 つまり、昨日は少し拓海に嫉妬していただけなのだ。 それがあまりに醜かったら拓海には見せたくないと思った。 けれど、拓海はそれさえも受け止める。返すことはできないかもしれないけど、受け止めてやるとさっきの言葉の裏で言われているような気がした。 まあ、これは宇美の自己解釈によるものだけれど、それでも宇美はうれしかった。 それと同時に自分の醜い心を知られていたのだと想い、結構恥ずかしかったけれど。 宇美は少し赤くなった頬を覚まして、教室へと向かっていった。 back top next |