無名感情

 夢を見た。
 ただ、オレはそこにずっと据わっていて。
 周りはただただ広がる闇。
 闇は心地良いはずなのにどこか居心地が悪かった。
 そこから泣き声が聞こえる。誰の泣き声かわからない泣き声が。
 幼い、幼い子供の泣き声が。
 静かで、物悲しい泣き声が聞こえてくる。


「ウミ? どうした?」
 目を開くと幼馴染の顔が見える。どうやら覗き込まれているらしい。
 不意に髪の毛を引っ張ってみた。こいつの髪は長いから引っ張りやすい。
「うわ! 何すんだよ、ウミってば! 俺禿げるぞ!」
「……」
「で、どうしたわけ? なんかお悩み中?」
「……」
「なんかあったのか?」
 だんだんソラの声がふざけたような声音から真剣な声色に変わってくる。
 こんなときに不謹慎だけれど、本当に不謹慎だけれど。心配されてるんだなと思った。
 こいつは結構飄々としていて、いつもは子供っぽいくせにどこか大人で。
 悩みとか辛さとか表に出したがらなくて、いつも冗談や笑顔で周りを囲っていて。
 あったかいはずなのに、なぜか時々冷たくて。
 そして鈍感そうで、意外に鋭い。
「……」
 珍しく無言で答えを求めてくるウミに対して、オレはどこか根負けした感じで口に出した。
「夢を見たんだ」
「夢?」
 不思議そうな顔でソラが首をかしげる。オレと夢がつながらないのか、その夢がどんな夢なのかと追求してい るのかは分からなかった。
「そう、その夢に対してちょっと考えていた」
「で?」
「それだけだ」
 その答えにソラはふくれっつらをして不満を表す。
 だけど答えようとは思わなかった。
 その夢は意味深すぎて、だけど意味が分からなくて。
 どう判断して良いか、オレ自身にも分からなかったから。
 きっとソラは聞かない。オレが言わないことを知ってる。こいつも結構頑固なところはあるけれど、オレも結 構頑固者だ。
「それより、何か用か?」
 隣にどっかり座ったソラに聞くと、ソラはふっと笑った。
「まあ、何? 青春の結晶というか、思春期の思い出作りが残念ながら親愛なる我恩師達には伝わらなかったと いうことだよ」
「……つまり、なにかやらかしてきたんだな」
「あったり〜。さっすが、ウミ! 俺のことよくわかってる〜」
 語尾にハートマークがついてそうな台詞に、ため息つきたくなるのはなぜだろう。
 いつも尻拭いさせられるのはオレだからか、能天気と言う言葉があまりにぴったりきすぎるからだろうか。
 そんなことを思いながらもオレの視線はまっすぐと空を見上げている。
 広やかなる、それこそ人間のオレたちにしてみれば飲み込まれてしまいそうな。
 鮮やかなる、それこそどんな天才画家がいても、どんな優れた写真機でもあらわせないような。
 そんな青空を。
 きっと、オレがここにいるのはこの学校で一番この空に近いせいもあると思う。
 確かにくる人が限られているというのもあるけれど。
 隣の男と同じ名前の、その男にふさわしいソラの傍にいるために。
 ここにいるんじゃないかって、ソラが傍にいるとそう思う。
 オレがソラのものでないように、ソラもオレのものじゃない。
 ソラにそういえば茶化すように「俺はウミのものじゃん」っていうんだろうけど。
 でもそれは違う。多分オレたちはお互いのために生きているわけじゃない。
 お互いのためにだったらもしかしたら死ねるかもしれないけれど。
 けしてこいつのために生きてるだなんて思ったことはない。


 だけど。
 こいつはオレのためにいるわけじゃないけど。
 オレにとっては。
 必要なんじゃないかって。
 時々思う。
 もし。
 こいつが。
 オレの傍からいなくなって。
 オレは。
 それから。
 正気でいられるだろうかって。
 息を吸えるだろうかって。
 再び会ったときに。
 笑えるだろうかって。
 この優しい幼馴染に。
 この愛しい親友に。
 笑い返せるだろうかって。


 すぐに離れるわけじゃないのに。
 未来に絶望しかないわけじゃないのに。
 ソラだって今笑っているのに。
 ただ願うのは。


 ――このまま時間が止まればいい。


 敵対するだろう未来が恐ろしくて。
 この腕を失いたくなくて。
 見守るように温かな視線をなくしたくなくて。
 傍にいる存在を見失いたくなくて。
 それがもし進む未来にあるのなら。
 いらないとさえ思ってしまう。
 ただ、この存在が傍らにあるこの時間が永遠に続けば良いと思う。
 馬鹿げた願いだ。いつかはやってくる。時間は止まっちゃくれない。そんなこと分かっているはずなのに。
 それでも願ってしまうのは、オレの弱さか。
 ああ、夢の中の泣き声がまだ聞こえる。耳に残る幼い声。
 きっとあれはオレ自身なのだと思う。何で泣いているか分からないけれど、悲しげで悔しげで寂しげで。
 俺はまだ幸せなのだと知っているのに。
 まだ、この陽だまりのように暖かく太陽のように底抜けに明るく。
 そして広がる空のように広大な男の傍にいられるのだと。
 知っているはずなのに……。
 ただ未来に怯えるなんて笑えるほど愚かだけれど。
 心の中に救っている恐ろしさは消えてくれない。
 現在ある幸せを謳歌できるほど、オレはきっと強くないのだろう。
 だけどこいつにそれを悟られたくないんだ。どこかに不安を絶えず抱えていることなんて知られたくない。
 心配そうな顔なんて、怒った顔なんて、悲しそうな顔なんて見たくない。
 ただ、オレのかわりに笑っていれば良い。
 お前が似合うそういう場所で。あの暖かな場所で。
 のんきに笑っていれば良いと思うんだ。
 そのためだったらどんなことでもしてやるから。
 お前はただ単純に笑っていれば良い。そういう生き方が一等似合う馬鹿なんだから。
「ウ〜ミ〜、オレのこと一人にするな〜!」
 そう言われながら圧し掛かられた。自分の体重を分かっているからなのか、まあ多少は加減されてるけど重い ものは重い。
 仕方なく体を起こすとただ広がる空が近づいた。
「あのさ、ウミ。前に言ったこと覚えてる?」
 オレを抱きしめたままソラがそう聞いた。
「ほら、屋上で紙ヒコーキとばしたときのこと」
「……」
「オレの気持ちはさ、まだあの時と同じだよ?」
 どことなく男っぽい笑顔でソラはいう。
 何もかも見透かしているというような瞳で。
 何も知らないというような軽い口調で。
 ソラはそう言った。
「俺が空を飛ぶときはウミも一緒だ」
 ただ単純にそう笑った。
 なんともいえない感情が胸に広がった。
 喜びでも悲しさでも怒りでも楽しさでも寂しさでもない、だけど熱さだけは多分にある感情。
 ソラと会うまで感じたことのない感じ。
 この感情になんて名をつければ良いんだろう。
 友情でも愛情でも同情でもただの情でもない、でも心に確かに感じるこの想いは。
 なんと名をつければ良いんだろう。
 ただ分かるのは目の前にいるこの男が、大切だということだけ。
 空虚な俺の中にただ小さな光をもたらしてくれた奴。
 きっと、遠い未来こいつとはなれることがあってもオレがこいつを忘れることはない。
 きっとすべてを忘れてしまっても、こいつはきっと覚えてる。
「……ありがとな」
 ただ小さな声で、いや声に出したかどうかなんてわかんないけど一応お礼は言っといた。
 ソラには聞かれたくないけど、なんでかいいたくなって。
 案の定ソラには聞かれずにすんだらしく、不思議そうな顔を浮かべてる。
「え? なんて言ったの?」
「そろそろ授業始まるぞ」
「うそつけ〜! 文字数違うぞ、絶対!」
「いいからさっさとしろ」
「ウ〜ミ〜」
 オレを抱いていた手を振り払って立ち上がると恨めしげな声を出す。
 本当に
「バカソラ」
 馬鹿な男。お前を必要とする奴なんて、きっといくらでもいるのにオレの傍にいてくれる。
 何もない俺の傍で笑っていてくれる。
 馬鹿で優しい男。
 本当はずっと傍にいたいけど。本当はけして離れたくないけど。
 お前のためならどんなことだってしてやるよ。
 多分オレはそれで救われると思うから。その心のかけらで生きていけると思うから。
「いくぞ、さっさと起きろ」
「ウミのいけず〜」
「逝ってよし」
「あ、ちょっと待てって! 俺も行く!」
 ただ、少しだけこのままでいさせて。
 居心地の良い楽園から、まだ追い出さないで。
 まだ縮まるな、モラトリアム。
 この幸せをまだ心に抱いていたいから。
 そう思いながら、オレは笑って見せた。
 きっとソラの未来は明るいことを信じてるから。
 オレは笑って見せた。
 ソラがそれを見て笑ってくれることが嬉しい。
 名前のつかない感情がまだ心の中にあるのなら。
 すべてが終わった後でつければ良い。
 だから、まだしばらくつかないままでそこにいろ。
 それがきっと幸せになるのだろうから――。


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