この家に入るときはいつも緊張してしまう。
 中学生のとき、初めて通された門。
 もうここにはじめてきたときから数えると三年になる。
 けれど、いつまでたってもなれないと思う。
 この家には、あの人がいる。あの人が住んでいる。
 それだけで高鳴る胸の鼓動。
 それがまるで私の単純さをあらわしているようで。
 それが私の思いの強さを単純に表しているようで。
 それが照れくさいような、恥ずかしいような。
 そんな気分になってくる。


「あら、いらっしゃい、李歩ちゃん! 待っていたわ!」
 玄関を潜り抜けたとたん、ぎゅっと抱きしめられる。
 頭に頬擦りされているらしく髪が乱れる。
 顔は豊満な胸に押し付けられて少し息苦しい。
 それでも、その行為には暖かさがあった。
 この家を訪れると毎回のように繰り返される習慣のようなもの。
 それにいまだ慣れないのは……抱きしめられることに慣れていないからか、それともただ単に好きな人のお母様だからか。
「こんばんは、おば様。今回は亜里沙さんにお招きいただき……」
「まあ、堅苦しい挨拶なんていいのよ。それに李歩ちゃんはまだ私のことをお義母さんと呼んでくれないのかしら?」
 そう寂しそうな顔をされても……。
「お母様、それはまだ気が早すぎますわ」
 亜里沙さんがあきれたように肩をすくめた。けれど、おば様は一向に気にしない。
「あら、どうせなら今から呼び方直していただいたほうが後々楽じゃない」
 けらけらと笑うおば様はひとつの会社を経営している女社長にはちょっと見えない気安さみたいなものがある。
 もちろんそれは身内用で、社長として働いているときはそんなもの一片も見せないけれど。
 そしておじ様もそんな一面を持っている。それはきっと組織のトップである人たちにとってはなくてはならない処世術なのだと私は思っているけど。
 身内の顔を見せるのはきっと、お父さんとおじ様たちが親友だったからで。
 だからこの婚約も成立しているのだ。お父さんも一応それなりの地位を持っているから政略結婚ともいえるけれど。
 それでも、彼らが親友でなかったら成立しなかっただろう、この婚約は。
 本当は候補者がたくさんいたはずだから年の近い、もっと早く結婚できる人となったのかもしれない。いや、もしかしたら赤坂さんは自分で伴侶を選べたのかもしれない。
 そして私も――。
 そのことに不満を持っているわけではないけれど。望ましいことだと思っているけれど。
 それでもやっぱりしこりが残るのは仕方のないことだろう。
 もう許婚というものが一般的ではなくなったし、政略結婚ももう時代錯誤だと思っている人たちも多い。
 けれど、実際はそんなに少ないわけではない。
 つながりを強固にするのに一番効果的なのはいつの時代でも結婚なのかもしれない。
 血のつながりは切っても切れないものがある。
 それをビジネスに利用するのに嫌悪感を感じる人もいるけれど、それもまた仕方のないことなのだ。
 身内を贔屓する人は多いのだから手っ取り早く進めるにはやはり結婚が有効なのだ。
 それについて私は小さいときはなんとも思わなかった。
 年頃になると恋の話などもするようになるけれど、それでも結婚と恋は別物なのだと子供心に知っていた。
 まわりもそういうことを割り切らなければならないような子供ばかりだった。
 誘拐などは一番身近な犯罪だったし、自分の利用価値も自覚しなければ危ない子供達。
 その中で育った私にとって政略結婚や若いうちのお見合いはそんなに珍しいことではなかった。
 いつかそうなると思っていたし、赤坂さんがだめでもいずれは誰かに勧められた結婚をするのだろう。
 お父さんは私が誰かを好きだといったら無理に進めないだろうけど、私は多分覚悟していた。
 おそらく見た事のない人と結婚するのだろうと。
 そして、それはある意味そのとおりだった。
 赤坂さんをはじめて紹介されたとき「婚約者」として紹介されたのだから。
 ただ、違ったのは彼のことを愛したことだろう。
 愛せるわけがないと思っていた。あったその日に惹かれるなど、小説などでしかないと。
 恋をしたことのなかった私にとって、それは奇跡のようなことだった。


 おば様がさっと私の背中を押してくれる。
「さあ、早くお入りなさい。寒かったでしょ?」
 まだ季節は冬というのには早いくらいだけれど、それでも夜になると風が冷たくなる。
 それを気遣っておば様は母親のように言ってくれる。
 この家に車で、誰かが出迎えてくれることはなかった。
 もちろんヘルパーさんとかもいたけれど、お父さんはあんまり人がそばにいるのは苦手だから週に何回か掃除をしにきてくれるだけ。
 前は私のために住み込みの人がいてくれたけれど、成長によって自分のことは自分でできるようになってきたから。
 さびしいとは思ったけれど、それも慣れた。
 お父さんは帰ってくるのはたいてい午前様だし、仕方のないことだ。
 母親をいつ亡くしたのかはわからない。
 もちろん亡くなった日などは知っているけれど、その瞬間の私を覚えていない。
 年から考えると物心ついていないとは思えないけれど。
 私は、母を覚えていない。
 母のぬくもりも、母の声も。母の姿は写真などで知っているけれど、動いているところは覚えていない。
 それが悲しいとは思わない。けれど、おば様の手はどこか懐かしい気がして。
 それがひどくさびしくて、それがひどく嬉しくて、それがひどく照れくさくて。
 さまざまな複雑な感情が私の心に起きる。
 そしてもっと私の心を複雑にするのは
「ただいま、李歩」
 この声の持ち主だ。
 この声を聞いただけで私の鼓動は鳴り響く。
 まるで生きていると訴えるかのように。
 ドクン、ドクンと鳴り響く。
 まるでこの人を愛しているのだと叫ぶように。
「あら、お兄様。今帰ってきたのですか? 私たちお兄様がもう帰っていらっしゃると思ってお茶を残してきましたのに。もっとゆっくりするべきでしたわ」
 亜里沙さんが残念そうに頬に手を当てる。
 赤坂さんはクスリと笑った口元を指で隠す。
「そうやって寄り道をするのはいいけれど遅くまでならないようにしろよ」
 いくら用心したって危ないときは危ないのだから。
 優しい声でそういう。
 亜里沙さんはクスリと笑う。笑みの意味は違うだろうけど、こういうところは兄妹だなと思う。
「あら、そういうことは婚約者さんに先に言うべきではなくて?」
「李歩はお前が誘わなければそんなに遅くならないだろう? それに遅くなるときは連絡を入れてくれるようにお願いしているからね」
「まあ、情けないですわね。赤坂家の長男が婚約者の行動を制限するだなんて。どんなに自由に飛んでも守りきるぐらいの度量がなければ」
 亜里沙さんはいつも赤坂さんにこういう態度をとる。
 それはきっと亜里沙さんが赤坂さんを好きだということだろう。
 赤坂家という重みを亜里沙さんは当たり前のように背負っている。
 赤坂コーポレーションの社長令嬢にして、系列グループ会長の孫娘。
 彼女はその価値と求められるものをよくわかっている。……いい意味でも悪い意味でも。
 どんなことがあったって甘えてはならない。毅然と前を向き、優雅に。
 いつも強気で、心をめったなことでは許してはならない。
 それは亜里沙さんが努力して身に着けていった甲冑。
 身を守るのに、赤坂家の汚点にならないように。亜里沙さんは努力する。
『私は赤坂家の長女、亜里沙です』
 自己紹介のときにそうはっきりいって周りに反感と尊敬の念を一挙に買った。
 その自己紹介は名前よりも苗字が大事という風に取れた。そしてそれが当たり前のように亜里沙さんは振舞う。
『私は赤坂亜里沙であり、それ以外の何者でもございません』
 赤坂家に生まれたからその権力を使うことに怯まない。
 赤坂家のプラスになることは自分のプラスだと思っているという。
 自分の家名を恥じたことはないし、またもし赤坂に生まれたのではなかったらなど考えたことすらないと。
 そんな彼女を、私はただ単純にかっこいいと思った。
「まあまあ、李歩ちゃんがいらしているのに兄妹喧嘩なんて見苦しいわよ」
 おば様があきれたようにため息をつく。
 それは愛するものだけの、子供を愛している人にだけの特権だと思う。
 母親にだけ許された愛のこもったため息。
 それを見て私はほほえましいような、心のどこかがうずくような奇妙な気持ちになる。
 おば様もまた、赤坂家の嫁になったことを後悔などしないと胸を張る。
 彼女達は誇りを持って赤坂の名を謳う。
 もし、それを引け目に感じたならば捨てればいい。
 もし、負い目をかんじたのならばただあなたが名にふさわしくないのだと。
 悪いことをしていないならば、胸を張ればいいと。
 彼女達は笑ってそう主張する。
 それは、赤坂の名を後ろに持っているからではなく、彼女達の強さだ。
 彼女達が赤坂の名にふさわしく、と目指した末の強さだ。
 それが古いという人もいるだろう。実際に虎の威を借りる狐のようだといわれたこともあるらしい。
 けれどそれを笑い飛ばせるだけの力を彼女達は手に入れている。
 それが彼女達の強さだ。だからこそ、彼女達の笑顔は綺麗なのだと思った。
 ――まるで女神のように。


「李歩? 大丈夫か? なんだか疲れたような顔をしてる」
 心配そうにおでこに手を当ててくれる赤坂さんの優しさにほろっときてしまいそうになる。
 私は甘えるように赤坂さんの胸に寄りかかった。
 大きな胸板は暖かく、遠くから心臓の音が聞こえるような気がする。
 心臓の音は安心できるって本当なのだなと思う瞬間だ。
「大丈夫。ちょっと疲れたけど、たのしかったから」
 それは本心だ。ここにいると戸惑うことも多いけれど楽しい。
 暖かい家族。うちとは違う温度が気持ちいい。
 お父さんが優しくないわけではないけれど、一人しかいない家はまるで冷たいようで。
 だからこそ戸惑い、だからこそ楽しい。
 大きな手が私の頭をなでる。
 慈しんでもらえているようで私は少しだけ嬉しく、少しだけさびしかった。
 やわらかさとは縁遠い、大きな少し骨ばった手だけれど。
 懐かしいような気がする。その手がお父さんかお母さんか、はたまた別の人かわからないけれど。  そっと見上げると、優しい微笑が見える。
「ああ、大丈夫だ。寂しくなったらいつでも来ていいから」
 ああ、愛しい。
 この膨れ上がる想いはどれだけ膨れ上がればとまるのだろう。
 伝えられない。言葉では伝えられないから。
 この想いすべてを表すことなんてどんなに言葉を重ねても伝えられない。
 静かに目を閉じることで私の意図を伝える。
 愛してるという言葉だけじゃ足りない。
 好きだという言葉だけじゃ伝わらない。
 だから暖かなキスを。柔らかなキスを。
 唇からこの重いすべてが伝わるとは思わないけれど。
 それでも私は一欠片でも伝わればいいと願う。
 この想いのただ小さな一片でも言葉よりは伝わるはずだから。
 ふっと望んでいたぬくもりが、暖かくやわらかいものが唇に当たる。
 まだ足りないと思ってしまうのは私があまりに強欲だから?
 渇いたのどを潤すように、もっともっとと心が叫ぶ。
 もっと伝わって。
 もっともっとこの人に。
 伝えて。熱を媒介にして。
 すっと離れた唇がまた振ってくる。
 まぶたに。頬に。つむじに。
 暖かさにおぼれそうになる。
 暖かさは安らぎの象徴だということを示すかのように、赤坂さんのキスは私を子供に戻していく。
 母の腕でただ安眠をむさぼればいいと、誰かに守ってもらえる子供に。
 柔らかで少し乾いた唇の感触に緊張とともに安らぎを覚える。
 貪欲な心がもっととねだる。脳が幸福を感じる。
 ああ、なんて幸せな瞬間――。
 目を開けると柔らかに笑った赤坂さんの顔が見えた。
 世界で一番好きな顔。世界で一番好きな表情。
 そっと赤坂さんの胸に頬刷りをした。
 この体温が一番好き。一番安らげる温度。
 赤坂さんのすべてがきっと一番好き。
 一番好きであふれ出す。


 ――なんてこの世界は儚く美しいのだろう。
 ――なんてこの世界は幸せと不安に満ち溢れているのだろう。


 願うのならば、この瞬間が永遠だったらいい。
 この暖かさが私の傍らにあれば、それで私は幸せに死んでいけるだろう――幸福だけを胸に抱いて――。
 幸せの洪水でなきそうになる。
 それはただ心が幸福でないているからか、それともその崩壊を儚んでいるからかはわからないけれど。
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