それは当たり前のことだったのかもしれない。 この人の言っていることは、正しいのかもしれない。 私は……あの人を縛り付けてる? 「こんにちはー、李歩ちゃん!」 斗海さんがオープンカフェのテーブルから手を振ってるのが見えた。 あいかわらずポジティブな人だなと思った。 亜里沙さんと一緒にあったときに、携帯番号とメールアドレスを交換した私たちの交流は今でも続いていた。 いつの間にか私の呼び方も佐々木さんから斗海さんに移行していた。 「何にする? ここはねーケーキがおいしいのよ」 嬉々とした様子で斗海さんはメニューを私に見せた。 はしゃぐ姿を見ていると私も釣られて嬉しくなる。 この人は人を喜ばせたり、笑わせて元気にさせたりすることがすごくうまい人だ。 亜里沙さんもそういうところがあるけれど、斗海さんとはやはりどこか違う。 「今日は綾彦さんは?」 「休みよー。どこか好きなところで写真を撮ってるんじゃないかしら?」 だから私はこうしていられるんだけどね。 そういって舌を出して笑う斗海さんに私も微笑み返した。 「私はそうねー、モンブランにするわ。李歩ちゃんは?」 「えっと、シフォンケーキと紅茶をいただきます」 私の返事を聞いて斗海さんはウエイターを引き止めて注文する。 そして私に振り返って 「で? どうなの? 最近赤坂氏との関係は?」 と真剣そのもので聞いてくる。 「どうって……特に……そのままですけど……」 質問の意図が分からない。 斗海さんは恋愛話とか好きだけれど、こんなふうに聞いてきたのは初めてじゃないだろうか。 「いや、嫌な噂を聞いてね。なんとなく。だけど特に何もないなら良いわ」 噂っていっても本当にがせに近いもんだしねーと笑った斗海さん。 私もそれに習って笑うけれど、心のどこかに引っかかった。 「いやね、こっちのほうにも流れてくるのよね。ほら、私たちっていっちゃえば宣伝専門職だし。いろんな業者がいるわ。そこでちょっとね」 「ちょっと?」 「うーん、まあ、赤坂の御曹司をどこそこの令嬢が気に入ったって奴よ」 聞いても楽しくないでしょ? と斗海さんは口をとんがらした。 確かに楽しくはない。けれど……どこか予感はしている。 この前の亜里沙さんの言動。付け入る隙があるという事実。 きっと、本気で赤坂さんを好きな人がいるのだ。 すぐ傍に。赤坂さんの傍に。 きっと誰にも認められるような、姿で。 「そういえば最近亜里沙ちゃんと綾彦が何かたくらんでるみたいで嫌ねー」 「え、そうなんですか?」 そう聞くと斗海さんは首をすくめた。 「そうもなにも、たぶん亜里沙ちゃんが前に言ってたじゃない。カメラマンになったあかつきにはって奴。それでまず学校よりも一足飛んで弟子入りしちゃおうってことみたいね」 「それってまさか……」 「多分あたり。赤坂グループの中のカメラマンを師事するみたいで……あー、もう金持ちってやーねー」 舌を出して苦々しげな顔をする。 だけれども、その口元に笑みを隠しきれていない。 きっと嬉しいのだろう。綾彦さんが着実に夢に向かって進んでいることが。 一番そばで見ていたこの人だから誰よりも。もしかしたら、本人よりも嬉しいのかもしれない。 この人は人の成功を喜んでくれる人だ。まるで自分が成功したかのように喜んでくれる。 そう、斗海さんはだから私に同情的でさえあるのだと思う。 今、はたから見たら私はあまりに精神不安定だ。 不安ばかりが先行して、怖い。 なんて情けない人間なんだろうと思う。 ただ一人の人のために一喜一憂してしまう。失うことを恐れて、それでも何も言わない。 なんて、情けない人間なんだろう。 そんな私を見て、 「……あのね、李歩ちゃん。あまり……」 斗海さんが何かを言おうとするのをさえぎるかのように、斗海さんを呼ぶ声が聞こえた。 「斗海? 斗海じゃない! あれ? そこにいるのは李歩さんじゃないの?」 ふと顔を上げるとそこには先日あったばかりの高藤さんだった。 「あら、幸子! なによ、もう久しぶりじゃない! 李歩ちゃんのこと知ってるの?」 斗海さんも知り合いらしく浸し下なようすで手を上げて挨拶をしていた。 「あら、当たり前じゃない。ってつい最近知り合ったんだけど、上司の婚約者よ」 「え、そうなの? ああ、そういえばあんたって赤坂グループの傘下にあるところに勤めてんだっけ? 忘れてたわー」 私はそっと席を譲って、隣の席に行く。 ありがとうと、高藤さんが私の隣に座った。 すると良い香りが漂ってくる。 この香りはたしか雑誌で大人の香りともてはやされた香水だ。 私にはおとなっぽ過ぎて似合わないけれど、口紅と同じようにこの人には似合っている。 そしてその隣に座った、女性も。 「幸子、この方は?」 斗海さんがそう聞くと高藤さんはニコニコと笑いながら紹介してきた。 「彼女は高橋さん。ほら、あの高橋産業のご令嬢」 その紹介を聞いたとき、斗海さんの顔がびしっと固まったのに気づいた。 まるでまずいところに出くわしたような顔。 「やだ、やめでください。私自身はただのOLなんですから」 「そんなこと言っちゃってー、もしかしたら良い縁談でもあるんじゃないかって噂よー」 そう高藤さんが茶化すとなぜか彼女は私のほうをちらりと見て答えた。 「まあ、確かに会社がらみの縁談はありますけどね」 クスリと笑って、そういう。 高藤さんは不思議そうに首をかしげた。その微笑の笑みが分からなかったからかもしれない。 だけど、なんとなく分かった。 この人なのかもしれないと。 斗海さんが言っていたあの噂の人は。 つまり、赤坂さんのことを好きで。 よければお付き合いしたいと思っている人は。 この人なのかもしれないと唐突に思った。 私が気づいたのに気づいたのか、それともただの社交辞令か、その人はにっこりと私に向かって笑った。 艶やかな笑みで。 つややかな唇をゆがませて。 彼女は確かに笑った。――それが恐ろしかった。 綺麗な人だ。いろんな意味で。 美しく麗しく。いかにも極上の環境で育てられたバラのように。 亜里沙さんの綺麗さとも、斗海さんや高藤さんの美しさとも違う。 ただ、自信の持ち方とか誇り高さとか。 そういうのは亜里沙さんに似ている気がした。違うのは亜里沙さんは家に所属している自分を誇りとし、彼女は自分自身が誇りであるということだと思う。 あったことがないのに、なぜだかそう思った。 「幸子、ちょっと!」 斗海さんが気にしたのか、高藤さんを奥のトイレのほうに連れて行った。 高橋さんはその様子を見てクスリと笑う。 「どうやら知っているようですね、あの人は」 まあ、幸子さんは知らないんですけど。 と確かに私を見て笑った。 私は思わず歯をかみ締めた。 そうしなければ、泣きそうな気がした。 「……何も言うことないんですか?」 高橋さんは不機嫌そうにそう聞いた。 眉をひそめても、そのひそめ方がセクシーだという人もいるのだろう。 なぜか頭の隅でそう思った。 「別に……何もいえません」 そう、何もいえるはずがないのだ。 彼女は私に何もしていない。それに心が誰を求めるかなんてコントロールできないことも知っている。 ここで何かを言っても、この人にとってそよ風にもならないだろう。 彼女は面白くなさそうに、ため息をついた。 「まあ、そう余裕ぶっていられるのも良いですけどね。ちょっとは考えたことないんですか? あなたのすがっている栄光はただあの人のお父様とあなたのお父様が友人であるってことで、それで婚約するのはおかしいのじゃないかって」 そんなこと分かってる。 おかしいってことぐらい知っている。 友達同士の事業提携。そのために婚約はいらない。 私たちの婚約は必ずしも必要なわけじゃない。 そんなこと、とっくの昔に知っている。 「私はあの方が好きですよ。そして誰の目から見てもあなたより私が隣に並んだほうがつりあっていると思いませんか?」 妙齢の美女と。 ただの女子高生と。 どちらが赤坂さんの隣にいて様になってるかなんて分かりきったことだ。 「正直あなたは憎らしくてたまりません。あなたにはどうしようもないことかもしれないですけど」 そういいながら、何でそんな目をするのだろう。 憎いといいながら、何でそういう目をするのだろう。 何でそんな……憐れむような、悲しそうな、目をするのだろう。 「お待たせー、斗海が放してくれなくてー」 笑いながら高藤さんが席に戻ってきた。斗海さんが心配そうにこちらを見てる。 斗海さんを安心させるように私はにっこり笑って見せた。 「幸子さん、私そろそろ……」 「ああ、そうねー、じゃあお邪魔サマー。李歩さんもまた」 「ええ、またお会いいたしましょう」 高藤さんと高橋さんがすれ違ったとき、耳打ちされた。 「まだ、私は完全にあきらめたわけじゃないですから」 それは、まるで宣戦布告。 だけれど、悲しみが混じったものだった。 そのまま帰る気になれずに私に赤坂家へ向かった。 どうしても独りになりたくなかった。ここにくれば、誰かが傍にいてくれるような気がしたから。 何でここにきてしまったのか分からない。あの人には……むしろ逢いたくないはずなのに。 それでもここのほうが心地よい気がして。 それは……許されるからかもしれない。 ここにいると否定はされないから。 すべてを肯定してくれる人たちがいるから。 この婚約も、私も。 いらないなんていう人いないから。 「ずるいなー、私は」 だけれど…… 「李歩? どうした?」 たまたま会社帰りなのか、スーツ姿の愛しい人がそこにいた。 「赤坂さん……」 思わず名前を呼んでしまう。今一番逢いたくなくて、逢いたい人。 思わず私は赤坂さんに背を向けてしまった。 今、この人の顔を見たら泣いてしまう。最近ただでさえ、涙腺が弱くてこの人に心配をかけているのに。 いきなり背を向けた私に不信感を抱いたのか、心配そうに抱きしめてくれる腕。 「どうした、李歩?」 さっきと同じようなせりふ。だけれども、甘さは格段に増している。 なんてこの人は、こんなにも優しい声を出すんだろう。 腕の温かさに涙が出た。 それは、こんな立場にはいないただ焦がれるだけの私の姿を高橋さんに見たからか。 それとも高橋さんというライバルができたからか。 分からない。 けれど、なぜかはじめてこの腕の中が悲しいと思った。 |