ねえ、あなたが見ているのは本当に私でしょうか。
 もしかしたら、あなたは違う人を見ているのではないのでしょうか。


「で、何があったの?」
 赤坂さんの甘い声に震える鼓膜。
 けれど、今日のことは言いたくない。
 言ってしまったらきっと赤坂さんは気にするだろうから。
 だから、いえない。
「いいえ、何でも……」
「なんでもないわけないだろう。最近李歩は変だ。何か言わないで隠してる。……なんで?」
「隠し事なんて……何も……」
「李歩」
 ただ名前を呼ばれているだけなのに、何で責められている気になるんだろう。
 暖かい声が、いつも大好きな声が。
 今は深く深く心に沈む。
「李歩、言ってくれないと分からないよ。俺が何かした?」
 赤坂さんは何もしていない。
 それなのに、何で私は何もいえないんだろう。
 ただ、赤坂さんのセーターに顔を埋めた。
 お願いだから私の顔を見ないで。
 そうでなければ、すべてを失ってしまうような気がする。
 すべてを……知られてしまう気がする。
 私の汚い部分も、すべてすべて。
「李歩、こっち向いて」
 優しく、優しく声をかけてくれる人。
 その声になぜか綾彦さんの声が重なった。
 ああ、この声のかけ方は……子供に対するものでしょう?
 けして恋人にかける声のかけ方ではないでしょう?
 そう、言いたくなった。
 これじゃあ、対等ではないのだ。
 これで本当に婚約者といえるのかと。
 いつまでも幼い私。年の差なんていつまで追っていても埋まりはしないのに。
 私は……どうすればいい?
 どうすれば、あなたの隣に並べる人になるのだろう。
 そう……高藤さんや高橋さんのように。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 ただ、私はうわごとのように謝った。
 それを聞いて赤坂さんは悲しげな顔をする。
「李歩、何を謝ってるの? 分からないよ、何で謝ってるのか」
 こんな悲しげな顔をさせてしまうのは私。
 ごめんなさい、こんな私で。
 あなたの婚約者になんてふさわしくないのかもしれない。
 あの人の言ってるように、高橋さんのほうが似合っている。
 小さな私。小さな小さな。ちっぽけな私。
 それを知られるのは……恐ろしい。
「……李歩はもしかして後悔しているの?」
「え?」
「俺と婚約したこと」
 赤坂さんの問いに必死で首を振った。
 そうじゃない、そんなんじゃない!
 私は……私は、それを幸福だと思ってる。
 それに嘘なんてない。
 なのに……なんでこんなに戸惑っているのだろう。
 ……いや、ちがう、戸惑っているんじゃない。恐れているのだ。
 赤坂さんがそう言い出したことに。
 もしかしたら、後悔しているのは赤坂さんじゃないのと。
 そう思ってしまう思考回路が恨めしい。
 何も答えたくない。あなたの答えなんて知りたくない。
 あなたが後悔してるなんて……思いたくないの。
「李歩、ちゃんと見て。何があったのか教えて? 何をいっても俺は怒らないから」
 そういわれて、思わず手で顔を隠してしまった。
 目じりに涙がたまるのを感じる。
 すると何かに包まれた気がした。
 ぎゅっと抱きしめられる感覚。
 ああ、この人の鼓動はなんて力強いのだろう。この腕の中はなんて暖かいのだろう。
 抱きしめられるたびに思う、この人の生きている証を感じる。
 この腕の中は……本当は私ではない人のためにあるのではないだろうか。
 いつも感じていた不安。だけど今日ほど感じたことはない。
 あなたが好きだと思うたびに、私の心は切なくなる。
 あなたが、同じ思いを抱えてないことなんて知っているのに。
 何で、こんなに……往生際が悪いのだろう。
 本当は……あなたに愛されたい。あなたに女として扱ってもらいたい。
 この腕の中に、子供としてではなく、妹としてではなく、恋人としていたい。
 その願いが叶わないのなら、多分私はあの人の言うように不自然な立場なんだろう。
 結婚は本来愛し合っている二人がするものなのだから。
 この人と一緒にいれば私は幸せになれる。
 だけど……赤坂さんはどうなのだろう。貴方は私といて幸せになれるの?
 貴方の幸せの中に、私の存在はある?
 ずっとずっとあきらめていたこと。
 それが急に欲になる。愛してほしい、貴方に愛されたい。
 ただ唯一の人になりたい。
 人形ではなく、恋人として愛されたい。
 もし、この婚約がなければ貴方にとって私はただの妹の友人でしかなかったでしょう。
 けしてこの腕に抱かれることなく、優しいキスももらえなかった。
 だから、高橋さんの言葉が棟に突き刺さる。
 不自然なのだろう、あの人にとってこの関係は。
 あきらめる理由として私は不適切だったんだろう。
 もし、赤坂さんの婚約者が私みたいな女子高生ではなくてもっと赤坂さんにふさわしい人だったらあの人はあんな悲しげな顔をしなかったんじゃないだろうか。
 あきらめきれないのは私が幼いからじゃないのだろうか。
 愛に年の差なんて関係ないというけれど、恋に年の差なんてというけれど。
 けれど、それは確かな壁となる。
 暖かい大人な手。広く大きな背中。そして柔らかな物腰。
 私がまだなれない「大人」という世界の持ち物だ。
「ねえ、赤坂さん。赤坂さんは本当に私で良いの?」
 つりあいの取れていない私で。
 聞くことを拒否していた私。
 返答されるのを怖がっていた私。
 こんな自分が一番嫌いだと思いながらも、そうする勇気なんて出ないで。
 ただ亜里沙さんや高藤さんをうらやむだけだった私で。
 赤坂さんは驚いた顔をした後、ゆっくりと微笑んでくれた。
「それは俺のせりふだよ? 李歩は俺で本当に良いの?」
 それは穏やかな笑みだった。
 私はゆっくりとうなずいた。
 ずっと決まっていたことだ。
「……赤坂さんじゃないと嫌です。貴方が好きだから」
 心の中で伝えることを拒んできたこと。
 貴方に初めて会ったときから惹かれて、今はどのくらいすきなのか私にも分からないくらい。
 貴方のこと好きです、とけして口に出せなかった想い。
 赤坂さんの重荷になりたくなくてなんて嘘。
 ただ、嫌われたりあきれられたりしたくなかったの。
 ただ否定されるのが怖かった。
 この想いを受け取れないと、私の好きな瞳が伏せられるのが怖かった。
 ただ、罪悪感に塗れた顔を見たくなかった。
 傍にいる権利を失いたくなくて。
 それならば、愛の言葉なんて要らない婚約者を演じようと思った。
 ただ抱きしめられるだけでなにも追及しない便利な女でいようと思ったの。
 だけど、心が悲鳴を上げた。
 それじゃ嫌だと。
 わがままな心が叫んだ。
 愛して欲しいと。大好きな貴方から愛をもらいたいと。
 暖かさだけじゃ足りない。
 切なさだけじゃ不満。
 貴方の恋人になりたい。
 そう感じてしまった。
 知らない女の人の隣を歩く貴方を見るのがつらくて。
 だけど好きだといってもらえない私にそういう資格があるのか分からなくて。
 ただ、この腕をはなしたくなくて。私だけの場所だと思いたくて。
 だから――。
「私は貴方の婚約者でよかったと思っています」
 それはまごうことなき本心。
 けして色あせない、私の中の真実。
 顔を上げて赤坂さんの顔を見る。
 赤坂さんは――微笑んでいた。
 優しく、優しく、微笑んでいた。
 そしてなぜかとても嬉しそうに。
 私を最高に幸せにしてくれる笑顔で。
 微笑んでいた。
「俺も同じだよ? って、なんでわかんないのかな?」
 クスリと笑って力強く抱きしめてくれる。
 これは夢だ。
 そう思った。
 夢だからこそ、こんなに幸せで。
 こんなに嬉しい出来事が起きるんじゃないかって。
 だけど、その力強さだけは私にこれが現実だと教えてくれる。
「李歩、苦しんでるのに気づけなくてごめん。そしてありがとう。――俺を好きになってくれて」
 柔らかに触れる唇。
 その暖かさにめまいがした。
 離れていく暖かさに、私は目を開ける。
 そして
「愛してるよ、李歩」
 ああ、私はこの人だけで良い。この人以外、何もいらない……。
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