モルモット 「卒業まであと一ヶ月」 そうかかれた黒板を僕はじっと見つめた。 ああ、あと一ヶ月で慣れ親しんだこの校舎とも一緒に遊んだ友達ともさよならなんだなと思った。 背負うのがあと一ヶ月だと思ったらただ自分がガキだと主張しているようで嫌だったランドセルにもなんだか名残惜しい気がするから不思議なものだ。 だいたいのやつらは持ち上がりで学区内の中学校へ入学するだろうが、僕は違う。 お父さんの転勤の都合でもっと都会の進学校といわれるところに入るらしい。しかも私立だ。 この前お父さんがだめもとで受けておけといわれた試験にまぐれで合格した。お受験塾にもたいした期間通っていなかった僕が受かったのは本当にまぐれだったのだろう。お母さんとお父さんは思いっきり喜んだけど、僕はそれよりも隣のやつが悔し泣きしたのに気がいってしまっていた。 はっきりいって進学校とか僕にとってどうでもよかったのだ。ただ一番近い学校だっただけ。だから僕には悔し涙を流している、そいつの気持ちがわからなかった。きっと僕よりも勉強してここにどうしても入りたかったんだろうけど、なぜ悔し涙を浮かべてまでここに入りたかったのかが理解できない。 でもここでは僕のほうが異質なのだということだけはわかった。 僕は正直、持ち上がりで地元の中学校に入りたかった。皆とも別れたくなかった。 そしてなによりあの瞳から僕が消えるのも怖かった。 彼女の瞳から、僕の存在が消えるのがたまらなく嫌だった。 彼女の名前は小酒井 美里。 可愛いわけではなく、どことなく冷たいイメージがある。不細工なわけではないが、目を引くような容姿でもない。 肩すれすれぐらいに黒い髪をそろえて、まるで市松人形のようなイメージを受ける。 何より特筆すべきはきっと彼女の目であるだろう。 少し大きめの目は何かを見透かすような、自分をありのまま映し出すような澄んだ瞳だった。 その瞳が僕を映し出すのは快感だと思った。 彼女は何かを観察するように僕を見る。 僕は他の女の子に見つめられたら居心地が悪くなるだろうし、もしかしたら気持ち悪いとさえかんじるだろう。けれど彼女の視線はなぜか不快ではなかった。むしろ見つめられることに快感さえあったのではないかと思う。 見つめられるとドキドキした。 最初はきっとこれは僕に与えられた特権なのだと思った。 気がついたら僕も彼女のことを目で追っていた。 彼女は誰にでも不躾な視線を送るわけではない。ただ、興味を持ったものだけを観察する。 僕もその中の一人にしかすぎないことがわかった。 それでも僕は満足だった。たとえその中の一人にしかすぎなくても彼女に選ばれたことは間違いないのだから。 何の感情も映さない瞳にありのままの僕が映る。 それは水面に映るよりもっと綺麗な気がした。何よりも綺麗な鏡だと思った。 彼女に対する僕の感情はわからない。恋愛感情だといわれれば頷ける気もするし、何も感じていないのだといわれたら納得できるのかもしれない。 しかし、彼女が僕に恋愛感情を抱いているとはけして思えなかった。 同じクラスのワタルには負けるけど、少しはもてていることを自覚している。 バレンタインには二桁には上らないが友達が羨ましがるくらいにはもらっている。 彼女達の瞳はまるで熱に浮かされたような瞳だった。何かを懇願しているような瞳だった。きっともっと大人になれていたのならば「恋する瞳」だったということがいえるだろう。 けれど、彼女はただ冷たい瞳で僕を見る。それは冬の朝のような冷たさで、何にもあらされてない雪の中にいる気がした。 その瞳に自分が映らないということは僕にとって恐怖だ。 なぜかわからないがその瞳に映ることは僕の存在意義のような気がしていた。 そのことが間違っていることはわかっている。けれど、なぜか僕はその瞳に映ることに執着していたのだ。 美里ちゃんとちゃんと話したことがあるのは一回きり。 「ねえ、引っ越すんだって?」 急に話しかけられて、僕の胸は激しく脈打ちながらそれをおくびには出さないように気をつけることで頭がいっぱいだった。 「うん。ここを卒業したら都会に行くんだ」 「そう、じゃあ会えなくなるわね」 彼女はそういって、僕から離れていった。 その声はとても綺麗な声だったことを覚えている。 瞳と同じように、その声は綺麗だった。 いつか、そんな彼女のそばにいられたらと思ったことは何度もある。 彼女に見つめられて、彼女の声を聞いて。 まるで雪を見つめるときと同じようにきっと幸せなんだろうと思う。 しかし、僕の望みは叶いそうにない。 僕に残された時間はわずかだった。 一度でいいから彼女の声で、彼女の瞳に僕を写しながら名前を呼んでほしかったけれど、今までろくに喋ったことのない僕が頼んだら変だと思うだろう。 それに僕にはそんな度胸なんてありはしない。 あと一ヶ月。 僕が君の瞳に映る期間。 ただじっと見つめる彼女。何の感情もなく見つめる彼女。 そしてそれにとらわれた僕。彼女の瞳に閉じ込められた僕。 きっと彼女の瞳に映らなくなった僕は何も変わらないだろう。けれど、きっと何かが足りなくなるだろう。 それはなんなのか、僕にはわからない。 ただ思うのは彼女の瞳に映る幸せだけ。 まるで狂ったようにそれを求める自分がいた……。 ああ、ここでも僕は異質だったのだろうか。 彼女の瞳だけを、声だけを求める僕はどこにいても異質な存在なのかもしれない。 そして美しい瞳と声を持つ彼女も同じように……。 novel top |