確かに恋は醜い感情ばかりかもしれない。だけどね…… 「そうね、そうかもしれないわ」 志津子さんは自嘲気味に言う。 「貴方の言葉は正しいかもしれない。たしかに、泣いていてばかりだと加美に怒られるわ」 だけどね、と続く。 涙は止まり、あるのはただ理知を秘めた瞳。 「前を向かなければいけない。加美を忘れないけれど、現実を見なければならない。幸せにならないと怒るわね、きっと」 だけどね。 「強吾君を見てると私は必ず罪悪感に侵される。どうしても思い出してしまう、加美のことを。そして怯えてしまう、いつかあなたをうしなうこと。だからごめんなさい」 貴方を愛することができません。 それは本当の決別だった。 俺はため息をついて、すべての思いを詰めたため息をついて笑ってみせた。 「そっか……、そうだよね。ごめんね、志津子さん、苦しめて」 ごめんなさい、とつぶやく貴方は子供のように見えた。貴方のほうがすごく年上なのに。 でも、それをしているのは俺自身なんだ。 「強吾……くん……」 「良いんだよ、困らせるような真似は俺はしないから」 精一杯理解のある大人のふりをする。 あふれてくるのは悲しみやくるしみや名前の付けようのないどろどろとした感情。 だけど、だけどそれでもこの人が安心するなら笑っていよう。 空港での意味を教えてくれた貴方に感謝しよう。 そしてこの想いにはふたをしよう。きっとこれはけせも減らせもしないから。 せめて……。 「ねえ、志津子さん。貴方は卒業したらどうするの?」 俺は無邪気なふりをしてそう聞いた。 もう恋心なんてふさいでしまえ。この人を苦しめるだけの恋心なんて。 ああ、それなのに俺ってしつこいね、本当に。 あきらめるという言葉すら出てこない。 「そういえば、永住するかもしれないって言ってたからそれ? ふふ、いいかもね」 俺がそういうと志津子さんは俺の顔を見ないまま答えた。 「ううん、知り合いに会社経営をしている人がいてそのまま行かないかって言われてたんだけど、日本へ帰るわ。そして通訳の仕事をしようとおもってるの」 「そっか。そしたら相楽っちとかにもあえるよね」 そんな話をしていたいわけじゃない。 だけど、だけどほかに話せることなんてなくて。 ただ沈黙が続く。悲しくて、くるしくて。 どうしようもないくらいさびしくて。 「じゃあ、そろそろ行かないと」 志津子さんはそっと腰を上げた。 俺はそれを止める権利すら失っていた。 「さよなら」 俺の口から出るのは別れの言葉。 ごめん、由菜。お前は手術が終わったときに「これで志津子さんの元にいけるね」って笑ってくれたのに。 ごめん、桑田。そのためにここにきたわけじゃないけどさ、お前は俺の想いを応援してくれてたんだよな。 ごめん、江原。あんなにえらそうなこと言ってたのに、もう終わっちゃったよ。 ごめん、慧治。お前が俺が暴走してるのに、止めもしないで背中を押すことなんてまれだったのにな。 ごめん……みんな。俺、くじけそうかも。 ただただ、俺は志津子さんの背中を見ていた。 俺はあのころの俺みたいに強いわけじゃなかった。 だって志津子さんの思いも分かっちゃったから。 苦しみに耐える志津子さんなんて、見たくなかったから。 だから、ごめん。俺、あきらめちゃう。怖くて怖くてあきらめられなかった思いだけど、あきらめなければいけないときが来てしまったから。 さよなら、俺の運命の恋。だけど、お前を後悔したことなんてなかったよ。 『なに沈んでんだよ、強吾らしくない』 久しぶりに聞く慧治の声。っていってもそんなにたってないけどな。 だけどそれが酷く懐かしくかんじる。 「慧治ー、俺振られた」 『は? なに言ってるのお前』 慧治のいぶかしげな声が聞こえる。 だけど、俺はそんなのお構いなしで電話口でわめいた。 「だからふられたの! 完璧完全ふられたー!」 『……もしかして志津子さんにか?』 「……ほかにだれがいるんだよ!」 俺が振られるというのは志津子さんじゃないといないじゃん! 刑事はなにを考えているのか、少々の沈黙の後 『詳しく話せ』 と要求してきた。 『で、それであきらめたわけか?』 慧治の馬鹿にしたような言葉にちょっと頭にきながらも、ああ、そうだあきらめたんだなと自覚する。 「だって、しょうがないじゃん。俺だってあの人のああいう顔を見たくない」 だってはじめって立ったんだ、あの人のああいう顔は。 あんな悲しそうな顔は、初めてだったんだ。 俺のせいでそうしてるなら、離れるしかないじゃないか。 だって、俺の思いは俺のものでも、あの人に迷惑をかけて良い代物じゃないんだから。 苦しかったけど、悲しかったけど。 仕方ないじゃないか。 『ほほう、それで志津子さんがほかの誰かと結婚して、ほかの誰かと一緒に家庭生活を作っても良いんだ』 「……なにが言いたいの?」 俺が不機嫌な声を出すと慧治の忍び笑いが聞こえる。 『そういうことだぞ、あきらめるってのは。志津子さんの隣に誰かがいることを許容するって事だ』 「……」 『弱くなったな、強吾。昔のお前はどんな振られ言葉だろうがあきらめなかったぞ』 慧治は優しい声でそういった。 いつの間にそんな声が出せるようになったんだろう。 いや、ちがう。こいつはいつも優しかった。 引っ張りまわしているのに、しょうがないなって笑ってくれる奴だった。 優しさなんて見せるもんじゃないってかっこつけの奴だった。 みっともないことが嫌いで、努力しないことが嫌いで、だけど手を差し伸べるいい奴だった。 「慧治ー」 『泣くな、馬鹿。みっともない』 そう冷たく突き放しても、俺が刑事を手放さなかったのは、そうしたら慧治も手を差し伸べてくれることを知ってたからだ。 『それによく考えてみろ。愛せない奴に空港で名残惜しそうに可能性を残していくか? お前はお前の友達のためだって言ってたけど、志津子さんはエスパーじゃない。それは……あきらめてほしくなかったからじゃないのか?』 「え?」 慧治の言葉が胸に広がる。 ほんとうに? 本当にそうなの? 俺は貴方を愛したままで本当にいいの? 『それに、どうしてどうでもいいやつがいなくなることを怯える必要がある。失うことを怯えるのは大切な奴だけだろ。お前は大切な奴だからだろ』 そうなのかな? 志津子さんは本当にそんなことを思っていてくれたのかな。 それなら嬉しい。だけど……。 「それは加美さんに似ているからじゃないの?」 親友に似てるからほっとけなくて。 親友に似ているから大事で。 だからじゃないの? 『ばーか。お前が言ったんだろうが。志津子さんはお前とその親友とをごっちゃにしていないって。似てるも何も関係ねーよ』 ああ、そうなのかな。それならば会いにいってもいいのかな。 貴方を追いかけてもいいのかな。 「俺、いってくる」 『ああ、行って来い』 慧治は優しい声でそう送り出してくれた。 もう本当に愛しい親友! サンキュー、帰ったら何かおごるぜ! 『キョーゴ? どこか行くのか?』 電話を急いで元に戻して外に出て行こうとすると、マイクが声をかけてきた。 『俺の愛しの女神のところに!』 俺は志津子さんの家に走った。何も考えずにただひたすらと。 |