ただ、思い描くのはあの日のこと。
 ただ願うのは、もう一度あの人に会えること。


 職員室前。まさに今は決戦のときだ。
「いくぞ、相楽っち!」
 そう自分に気合を入れる。
 どきどきと高鳴る鼓動を抑えていざ出陣!
 そう、今は彼の人の情報をわが副担任からせしめることなり!
 がんばるぞー! おうー!
 って、なんて動かないんだろう、俺の脚。そんなに臆病者だったか、俺は!
 がんばれがんばれ、えいえいおー!
「ってなにやってんのよ、あんたは」
 あきれたような声が背後から聞こえる。振り向いたらクラスメイトの桑田と江原がいた。
 二人の手には数学の教科書が。ってことは西脇さんのところかな?
 桑田は肩まである癖のある毛をうっとうしそうに払い、にやりと笑った。
「あんたがこんなところにいるなんて珍しいじゃない。入学して初めてなんじゃないの?」
「桜、それはちょっと言いすぎ」
 江原が桑田をたしなめると俺に顔を向ける。
「それにしても本当に珍しいわよ。何かあった?」
 江原は何か感づいているのかもしれない。俺も分からない何かに。桑田も江原も俺に比べたらはるかに賢いけど、江原はどこか観察眼って言うのか? そういうのが優れているような気がする。
 別に暗いわけじゃないんだけど、静かな奴だ。とても静かで、どこか違うところにいるんじゃないかと思うときがある。
 相楽っちの義妹。そう聞いたのは入学してまもなくだったと思う。
 妹ではなく義妹。親の再婚じゃなくて、姉の結婚。
 深いんだか浅いんだかわかんない関係だって本人は言う。
 だから何もいわないけど。だから何もいえないけど。
 江原は相楽っちのこと、どう思っているんだろう。
 時々、相楽っちを江原が見る目がひどく切ないような気がする。
 切なくて、哀れんでて、だけど傷ついて……なんていったら良いかわかんない目。
 いつも冷めているように相楽っちを見るのに、時々感情が走るからわかんない。
 考えてみれば、相楽っちにだけじゃないだろうか。
 江原が冷めたような目をするのは。少なくとも俺の前でそんなに冷めた目をすることなんてほとんどない。あきれたような目はするけど。
 わかんないよな、こいつも。親友の桑田はこんなに分かりやすいのに。
「俺は相楽っちに用があるの! お前達こそなんか用? 西脇さんなら教官室だと思うけど?」
 主要科目は大体教官室というところがある。
 職員室のほうが何かと便利らしいのだけれど、教官室は限られた人しか来ないから立てこもる教師は立てこもる。
 職員室には持ち込めなさそうなものも持ち込めるしね。それに職員室は禁煙だし。
 でもまあ、そんな親父くさい理由じゃなくて西脇さんは数学の教師だから教えやすいようにと教官室にいる。やる気なさげの相楽っちとは天地の差だ。同じ年なのにな。
「違うわよ、私たちはその帰り。相楽先生になんてなんか用なの? 英語の教科書も持ってないのに」
「うるさいなー」
 どんな用かなんて……あれ? どういう用だっけ?
 そうそう。あの女の人のことを聞くためなんだけど。なんで?
 どうしてあの人のことが知りたいんだろう。
 あ、ほら、あれだ。ちょっと美人さんだからお近づきになりたいとか? 浅はかな俺らしい理由だなー。
 でも……それだけじゃないような。
 ただ、あの人が何かを探すように空を見上げていた理由がどうしても知りたくて。
 野次馬根性だと思っても、とめられなくて。
 ただ、あの人のさびしそうな笑顔が気になって。
 ただ、あの人に逢いたくて……。

 ああ……そうか。これは恋なのかもしれない。

 そう、ただ逢いたくて。一目会っただけなのにその人のことを考えると胸が高鳴って。
 苦しくて、どうしてもとまらなくて。
 楽しいことだけを考えていたくて、家族と友達しかいなかったこの心に。
 入り込んできたのは、家族でも友達でもないあの人。
 ただ、知りたい。あの人のことが知りたい。
 どうなるかなんて、わかんないよ。どうなるかなんて、知らない。
 ただ……あの人ともう一度会話を交わしたい。
「運命の人のためなんだよ!」
 そう、運命。きっとそう。
 一目ぼれなんて運命の象徴的出来事じゃないか!
 よっしゃ、燃えてきた!
「相楽っち!」
 思い切り良く、ドアを開ける。
 もう迷ってなんかいられない。
 心が騒ぐ。血が踊る。
 こんなに興奮したことは初めてで。目の前に光が広がっているような気がするのは絶対幻じゃない。
「あれ? どうした、師原。こんなところで珍しいじゃないか」
 ちょうど相楽っちがテストの採点中だった。
「相楽っち、お願い! あの人のことを教えて!」
 あの人の名前が知りたい。あの人がどんな人か。
 それが聞きたい。
 だってなにも知らないじゃ、始まらないじゃないか。
「あの人って……誰?」
 相楽っちが変な顔している。
 そりゃそうだ、相楽っちには俺の心は読めない。
「あー、えーと……」
 なんとなく、気恥ずかしいのは恋のせい?
 女の人の名前を呼ぶのに恥ずかしがるなんて、まるで中学生のようじゃないか。
 いや、つい最近まで中学生だったんだけど。
 ドキドキと高鳴る胸はまるで初恋時のようじゃないか。
 いや、それよりももっとすごい。
「あの、その、雨に濡れていたひと」
 それが俺の限界だった。
 というか、それ以上いえなかった。
 恥ずかしくて、照れくさくて。
 きっと顔が真っ赤になっていたと思う。
 相楽っちは少し考えた後
「ああ、富倉のことか?」
 と聞かれた。思わずぶんぶんと首を振ってしまう。
「そう、その人! お願い、教えて!」
「って、なんで?」
「良いから早く! あの人に逢いたいの!」
 あの人に逢えなければ死んでしまう。
 そんな馬鹿げた妄想も今は大手を振っていて。
 ただ一目あった人なのに。忘れられなくて。
 あの人に逢いたくて。逢いたくて。――死んでしまいそうなほど。
 それは苦しいからじゃない。どこからともなくあふれる想いが。名前も付けられない想いが。
 あふれる。たくさん、たくさん。どうして良いか分からないくらいに。
 ――あの人に逢ったら何かが変わる。そんな予感がする。
「どうしたのよ、いったい」
 いつの間についてきたのか、桑田が変な顔をして俺を見る。
「アキ兄、富倉って志津子さんのこと?」
 江原が相楽っちにそう聞く。相楽っちはあいまいにうなづいていた。
「多分そうだと思うんだが……何でそこまで逢いたいんだ?」
 そんなこと理屈でなんて分からない。
 ただ本能が知っている。
「あの人が好きだから」
 そうきっぱりいってやると相楽っちの目が驚いたように見開かれたあと、うっすらと細められた。
 まるで、何か懐かしむような。
 まるで、何かいとおしむような。
 まるで、何か哀しむような。
 そんな顔。
 相楽っちは恋をしたことがあるんだろうな。
 俺はこのとき単純にそう思った。
 身を焦がすような恋をきっとこの人は知っているのだろうと。
 ただ、単純にそう思った。
「……若いな、師原」
「当たり前だよ、俺今思春期じゃん」
俺はにかっと笑って見せた。


「ただいまー」
 そういいながら靴を脱ぐ。
 狭い我が家だから、きっと隅々に聞こえているだろう。
 とことこと足音が聞こえる。
「お帰り、お兄ちゃん」
「ただいま、由菜」
 にっこり笑う妹に俺もにっこり笑い返した。  母さんに少し似ている由菜はちょっと体が弱い。小さいときに大人になれないともいわれた。母さんと同じで。
 二つしか離れていなかった幼い俺はうっすらとしかその意味が分からなかった。けれど雰囲気で何かよくないことがあるというのはわかる。
 母さんは由菜を産んでから死んだ。そのときの記憶は俺にはない。ただ、暖かかったのかもしれないとは思ってる。
 その母さんの体質を由菜は受け継いだ。母さんが命を懸けて生んだ子供は、母さんのすべてを受け継いだ。
 皮肉だと父さんは笑った。神様は同じ思いをもう一度させるだなんて皮肉だなと。ただ一人母さんの記憶を持つ父さんはそういった。
 健康優良児で母さんの記憶のない俺は由菜の気持ちも父さんの気持ちも分からない。
 由菜がいなくなるなんて考えたことないし、父さんが同じ思いをすることも嫌だと思う。
 だから、このときから俺は笑っていようと思った。由菜と一緒に笑っていようと。
 そうすれば父さんが安心してくれるかもしれない。そうすれば由菜が元気になるかもしれない。
 母さんのことは分からないけど、由菜も父さんも大好きだから。
 今は父さんが単身赴任中でいないけど、ずっとつながっていたいと思うから。
 前向きに笑って生きてやろうと思った。そうしたらきっと何事もうまくいくと。
 それを前に慧治に言ったら笑われた。そんなこと決めるもんじゃないだろって。お前はただ何も考えないで突っ走っていけばうまくいくようになってるんだからそうやっておけって。
 慧治の言葉はかなり悪いけど、でもこいつはいろいろひねくれた言い方しかしない奴だから。素直じゃなねって言ったらなぐられた。絶対にこいつのせいで馬鹿になったんだと俺は思う。
 だって友達になってから殴られっぱなしでこいつのせいで脳細胞いくつ死んだかわかんねーんだから。
 でもまあ、俺って結構恵まれてると思ってる。
 母さんはいないけど、父さんも由菜も大好きだしひねくれた親友もいるし理解のある先生もおせっかいな友達もいる。
 そしてもうひとつ、幸せなことが増えた。
「由菜、俺は今日恋に気づいたんだ」
「恋? お兄ちゃんが?」
「ああ、運命の人に出会ったんだ」
 由菜は興味津々といった目で俺を見る。
 由菜もそういうことに興味を持つお年頃になったんだな。
 ちょっとそれがさびしいような、くすぐったいようなそんな感じ。
 俺はあの人とは違う意味でただ一人の妹を愛しているのだろう。
 俺が守ると誓った、小さなお姫様。
 いなくなったらきっと俺も父さんも狂ってしまう。
 だから笑っていてね、お姫様。
 お前の笑顔は俺の幸せに元なんだからさ。……なんて言ったら、また慧治に笑われそうだけど!
BACK  TOP  NEXT


inserted by FC2 system