苦しんだ。どうして私たちは一緒に生まれてきてしまったのだろう。
 一緒になんて生まれてこなければこんなに苦しまなかったのだろうか。
 こんなに孤独が耐えがたかったなんて知らない。
 孤独なんて、生まれたときから持っていなかったものだから。



比翼になれなかったものたちへ〜seid SERIKA〜


 遠い向こうの空に弟がいる。
 それをこんなに悲しく思うのは、きっと異常なのだろう。
 ただ唯一自分を理解してくれる、自分のすべてを知っている人。
 麻奈都はたぶん瀬李香が離れたと思っているのだろう。
 けれど、本当は違う。
 麻奈都のほうから離れたのだ。瀬李香から距離をとった。
 彼女が女になった日、麻奈都は次第に距離をとり始めた。
 他の人にはわからないくらいにゆっくりと。
 それがひどく寂しかった。どうして離れていくのと喚きたかった。
 けれどそれをするには麻奈都のことが判りすぎていた。
 分かっている。麻奈都と一緒になれるわけではないのだと。一生一緒にいれるわけではないのだと。
 ただ、そばにいたいということがこんなに難しい願いだとは思わなかった。
 恋人ならば、親子ならば一緒にいても変ではない。
 なのに生まれたときから一緒だった人と一生一緒にいられないのは変だ。
 けして消えない絆があるはずの人なのに。なのに今は遠い。
 この執着心は果たして双子だというだけなのだろうか。
 いや、きっと違う。そうだったのなら世界中の双子が苦しんでいるはずだから。
 この苦しみはきっと瀬李香が麻奈都に依存していたからだ。
 すべてを分かってくれたはずの弟。
 けして似てはいなかったのに、彼は自分の半身なのだと疑いもしなかった。
 離れたくはなかった。苦しかったし、寂しかったし、悲しかった。
 けれど、もうこれ以上自分と麻奈都の違いに気づきたくなくて。
 瀬李香は自分を好いてくれる人を理由に麻奈都から離れた。
 利用したのだ、自分に向けられた慕情を。
 けしてその人が好きでなかったわけじゃない。
 愛していた。でもそれは麻奈都への愛を凌駕するものではなく。
 好きだった。けれど麻奈都のほうが大切だった。
 恋してた。けれど兄弟愛のほうが深すぎて。
 彼は瀬李香をわかろうとしてくれたのだと思う。
 けれど、瀬李香はこの国にきてから彼とは付き合えなくなった。
 どうしても彼といると麻奈都を思い出してしまうから。
 恋特有の甘さも切なさも麻奈都には覚えなかった。
 そういう意味では確実に彼を愛していた。
 ただ、麻奈都は自分のものだと深い深い心の中に根付いていて、瀬李香はそれに気づかないふりなどできなかった。
 あまりに傲慢な。あまりに自分勝手な。
 そんな自分に吐き気がした。
 けれど心のどこかではそれが当たり前だと認識していて、さらに自己嫌悪が襲った。
 そんな自分から目をそらすために瀬李香は彼を利用した。
 彼は別れを告げると寂しそうな目で、悲しそうな目で瀬李香を見た。


『いつかそうなると思ってた。けれどそれから目をそらしてた』

『君にとっては一番じゃなくても、僕にとっては君が一番好きだったからね』

『けれど、君はそれに苦しんだだろう? 君は一人では生きられないけれど、他者を拒絶するようなところがあったから』

『僕は君の分身にはなれなかったね』


 いくら謝っても許されないことをしたはずなのに。
 彼は瀬李香を許した。
 悲しそうな笑みを浮かべながら、慈悲の手を瀬李香に差し伸べた。
 すべてを許す、暖かい大きな手。
 この手を取れない、自分を恥じた。
 けれど、どうしてもこの人と一緒に歩んでいく人生のビジョンが見えなかった。
 どうしてなのだろう。この人にはこんな顔をさせたくなかったのに。
 どうしてこんなに自分勝手になれたのだろう。
 愛したのは私。ついていくと決めたのも私。
 そしてそれを受け入れてくれた人。
 けれど、どうしても自分の中で麻奈都のほうがたいせつで。
 こんな私がこの人を縛っていていいのかと考えたとき、耐えられなかった。
 自責の念なのか、それとも自己嫌悪なのかは分からない。
 けれど、彼を縛っておくことに耐えられない。たとえそれを彼が願っても。
 きっと自分の心のどこかが壊れているんだと瀬李香は感じた。
 これは麻奈都がどうのこうのじゃなくて、双子だということも関係なくて。
 瀬李香という人間自身が壊れているのだと。


 その夜、何を思ったか実家ではなく麻奈都の家に電話した。
 その番号は母親から聞いて知っている。
 そして麻奈都が結婚するということを。
 そのころには一旦帰国しなさいと母親に言われていた。
 母親はただしい。姉ならば弟の結婚式ぐらいは出るべきだ。
 けれど、今は麻奈都と会うのが怖かった。
 会ってしまったら縋ってしまいそうで。甘えてしまいそうで。
 たぶん自分ひとりには戻れないから。
 だからこそ、会いたくなかった。
 なのに、この矛盾はなんだろう。
 いつの間にか、瀬李香は麻奈都の家の番号を押している。
 急に麻奈都の声が聞きたくなって。
 大丈夫だよと麻奈都の声で言ってほしくて。
 それならば携帯に電話すればいいのに。
 今の携帯ならばこちらからでもかけられるし、それにすぐ捕まえることができる。
 少なくとも家の電話よりはつかまりやすい。
 けれど、これはひとつの賭けのようなものなのかもしれない。
 もしこれで出なければ、諦めよう。
 そして、もし出れば……どうすればいいのだろう。
 ただ声が聞きたくなっただけ。
 それだけで四年ぶりに連絡するのだ。
 何を話したらいいか分からない。別段用事があるわけではないのに。
 番号を捺す手が思わず止まり、窓の外を見る。
 この国の華やかなイメージとは異なり、窓の外は闇が支配している。
 それは郊外に住処を決めたことが原因なのだが、それでも一人の夜をこの日ほど寂しいとは思わなかった。
 ところどころに明かりが見える。そこには家族が笑って暮らしているはず。
 それが寂しさを増長させる。
 こんな日はせめて、貴方の声が聞きたい。
 瀬李香は受話器を握り締め、番号をもう一度丁寧に押す。
 そして呼び出し音が鳴っている間、もう一度外を見る。
 この呼び出し音は麻奈都につながっている。
 それを思うと思わず切りたくなる。いや、切ってはいけないと寂しさが音を上げる。
 その呼び出し音はどのくらいで切れたのだろう。
 すぐのような気がしたし、長い時間なっていた気もする。

「もしもし」

 その声を聞いた瞬間涙が出そうになった。
 変わっていない、この半身である弟は。
 変わっていない。
 その事実が瀬李香になんともいえない感情を抱かせる。
「麻奈都……?」
 思わず声に沈みが出てくる。
 こんな声を出したら、麻奈都だって心配する。
 けれど、どうしても元気のいい声は出なかった。
「どうしたの?」
 あのときのように心配そうな声。
 麻奈都はいつでも瀬李香の心配をしている。
 瀬李香を大切に思ってくれている。
 それがうれしくて、切なかった。
 どうしたらいいか分からずに、思わず笑ってしまう。
「ううん、なんでもないの。変わらないね、麻奈都は」
「そんなことないよ」
「変わらないよ。私とは違うもん」
 そう、変わらない。麻奈都はきっと変わらない。
 その優しさとか、変わってない。
 瀬李香は泣きたいんだか、憤りたいのか分からない。
 これでいいはずなのに。
 何でこんなに苦しんだろう。
 変わらない事実はうれしいはずなのに。
 何でこんなに、悲しいのだろう。
 分かってる。変わらなくても、時をさかのぼれることはないのだと。
 第一、瀬李香は変わった。
 あのときの、純粋な瀬李香はどこにもいない。
 ただ麻奈都と一緒にいることが幸せだったころには戻れない。
「どうして? 瀬李香は変わったの?」
 変わった。とても変わった。
 だからきっとあんなに愛していた人も平気で振れた。
 瀬李香は何も答えられない。
「瀬李香、何かあったの?」
 何かを察したのか、麻奈都がそう聞いてくる。
 けれど、瀬李香は何もいえない。
 あったといえばあった。
 それは、過去に対する自分への決別ともなるだろう。
 けれど、それはいえない。いってしまえば麻奈都はもっと心配するだろうから。
「……私ね、麻奈都が傍にいなくてもつながってるんだと思っていたの。ずっと麻奈都のことを傍で感じられるんだと思ってた。絶対に離れないんだって思ってた。あの時……麻奈都と私は別の性を持った別の人間なんだって思い知らされる日まで」
 そう、あの日。
 私に初めて月の痛みを知らせた日。
 恐らく瀬李香も麻奈都もあの日を境に何かが変わった。
 一緒に生きていく道を失ったかのように。
 そんなこと、なかったのかもしれないのに。
「だから俺たちは離れたんだろ?」
「……そうね、だから離れたんだわ。私たちは」
 そうとしかいえない。
 そうだとしか、いえない。
 もう戻らないあの日にかえりたいと何度願ったか分からない。
 けれど、その願いはけしてかなわなかった。
 だからこそ、前に進むしかない。
「ねえ、麻奈都。そういえば結婚するんだって?」
 瀬李香はできるだけ明るくいった。
 それが成功したのかどうか分からない。
 けれど受話器からは向こうの様子は分からない。
 ただ、うなずいたのだけは分かった。
「瀬李香のほうはどう? うまくやってる?」
 そういう麻奈都。
 きっと瀬李香が結婚するといって結局別れてしまったことに気を使っているのだろう。
 あれが瀬李香からの離別だと分かっていたのだろうか。
 そして今度は麻奈都からの離別状。
 もう、歩けない。手をつないでいくはずだって人生を。
 もう誰もが、そんな年じゃないと、自立しなきゃと促す。
 それが怖くて瀬李香はここにいるのかもしれない。
 もし、彼に縋りつけたなら。
 もし、麻奈都に助けてといえたなら。
 この足元から来る不安の渦に飲み込まれないのだろうか。
 けれど、そんな弱音、麻奈都には聞かせられない。
 彼は今幸せでなければならないのだから。
 幸せであってほしいのだから。
「……ええ、うまくやってるわ」
 だから瀬李香はそう答えた。
 麻奈都がまた明日には日常に戻れるように。
 これは麻奈都と瀬李香との最期の二人の世界。
 瀬李香はそれを切り離す覚悟を決める。
 もう、けして夢見ることすらかなわない世界。
 もしそんな世界が存在しえたなら、なんとこの世界は平和なのだろう。
 けれど、平和なだけではないのだから。
 それならば、この胸から消去しなければならない。
 ただ少しだけ、もう少しだけ夢見る時間を。
 お願いだからもう少しだけ。
 瀬李香はそう願った。


 瀬李香の願いが通じたのかどうか。
 麻奈都との会話はあとは取り留めのない話題で切れた。
 瀬李香からはもう麻奈都へ連絡はしないだろう。
 もう甘えることを瀬李香は自分に禁じたのだから。
 麻奈都には伝えていない。
 これから瀬李香も結婚するのだ。
 彼との別れから4年。
 瀬李香は再び結婚の意志を固める。
 こんどこそ、麻奈都よりも愛したい。
 だからこそ麻奈都とは会えない。
 麻奈都に会ったらいとしさは募る。そして瀬李香はまた迷ってしまうから。
 ただ、恐ろしかった。麻奈都以外の人と、一緒の価値観を持ち一緒の人生を歩んできた人以外の人と一緒に人生を共にすることが。
 瀬李香は恐らくそんな不安を一生もって生きていくのだろう。
 大丈夫、今は麻奈都との電話であの世界をもう一度垣間見てしまっただけだ。
 瀬李香はそう言い聞かせる。
 二人きりの世界はもう存在しない。
 だからこそ、この雑多な世界で生きていく覚悟を決める。
 もう夢見てはならない、傷つけるものが何もないただ安らげる世界を。
 傷だらけになりながらも、現実を生きていく。
 瀬李香も、麻奈都も。
 それが、彼女たちの運命だ。


 ただ、時々思う。
 比翼の鳥になれればよかったと。
 片一方を失えばもう片方も死んでしまうような。
 そんな運命共同体ならよかったのだと。
 けれど、そうなれない。
 だからこそ、瀬李香は麻奈都の幸せを願うことしかできない。

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