片翼の恋


9.
今朝の宇美はどこかしら変だ。
拓海がそう思わずにはいられないほど宇美の様子が変だった。
授業中にさされても答えられないし、いつもだったら読んでいる本も取り出そうとしない。
前の席にいる一馬が
「なんか今日の相沢さん、変じゃないか?」
と拓海に聞いてくる。
拓海はちらりと宇美のほうを見る。
心なしか顔が青い気がする。
「そうだな……」
「そうだなって、冷たい奴だな。まあ、それほど気にすることじゃないかもしれないけどさ〜」
俺は気になるんだよと一馬が拓海の頭を小突く。
一馬が宇美に気があるのはある程度親しい奴なら知っている。
まあ、気がある程度で恋をしているわけではないらしいが。
それにしても、今日の宇美は誰の目から見ても変だ。
何かあったに違いない。
けれど、それは聞いてはいけないことのような気がした。
宇美が虚勢を張っているから。
自分は通常通りだと強情を張っているから。
それは崩してはいけないもののような気がした。
崩してしまえば何かが狂ってしまうような気がした。


実際宇美は賢い奴だ。
きっと自分が周りから見てどう思われているかわかっているに違いない。
体調が悪いだけならば、さっさと保健室に行くなりなんなりするだろう。
しかし、それをしないということは彼女が虚勢を張っているのは自分自身なのだ。
だからためらう。
それを宇美に認めさせて、いったい宇美はどうなってしまうのだろうか。
それが拓海は怖かった。
何か、壊してしまいそうで怖かった。
彼女の支えを殺してしまいそうで嫌だった。
いったいなにがあったというのだろう。
(……ちゃんと話せって言ったよな?)
それは一方的な約束だったけれど、あの時宇美は拒否しなかった。
言いたくなるまで見守ることしかできない自分が、拓海は歯痒かった。


それは午後の日差しが強くなる時間帯に起こった。
(やっぱ腹が膨れると眠くなる……。しかも飯島の授業かよ)
拓海は半分夢の世界へ入りかかっている目で、教壇に立っている中年教師を眺めた。
ただ教科書を読み進めるだけの授業が面白いわけがない。
一番退屈で、一番無駄のない授業。
現にクラスの過半数があくびをしたり、眠らないように努力して無理やり目を開けている状態だ。
もう素直にギブアップして、机に突っ伏している奴らもいる。
そんな中でもきっとあの人は真面目に授業聞いていたんだろうなと思ってしまうあたり、拓海は自分が末期症状だと思った。
いつも頭の片隅においてある。
ふとした瞬間思い出してしまう。
あの人のにこやかな顔。
(そういえば、相沢の奴も真面目に聞いてるんだろうな)
頭の中からそのことを追い出そうとして、無理やり意識を宇美に向けた。
ちらりと宇美を見るとやはり背筋を伸ばして教師の話を懸命に聞いている。
けれど……
(なんだか、顔が青くないか?)
そう、拓海が思った瞬間だった。
がたんと音を立てて、椅子の倒れた音がした。
それはまるで人形のように倒れていく宇美。
一瞬悲鳴が上がる。
飯島は心底驚いた様子で、宇美に近づいた。
海の周りに人だかりができる。
拓海も慌てて宇美の近くへと行こうとしたがどうも近づけない。
心音が煩くなる。
「相沢さん!相沢さん!」
飯島は急いで宇美の口元に手を当てる。
どうやら息はあったらしく、飯島がほっとするのを拓海は見た。
「保健委員!」
飯島が呼びかけると女の子二人がおずおずと手を上げる。
「急いで保健の先生を呼んできてくれ」
他の奴らには席に戻るように指示された。
拓海はその間中ずっと宇美を見つめていた。


どうやら、宇美の容態は大事ではなかったらしく拓海は少なからずほっとした。
今は保健室のベットで寝ているらしい。
そして拓海は今、保健室へと向かっている。
なぜだかはわからないが、あの見舞いの後何かがあったのだと思った。
何も根拠はない。
けれど、そうとしか拓海には考えられないのだ。
拓海は放課後を待って、保健室に向かった。
その途中で知り合いに会わなかったことがありがたく思える。
会ったら会ったなりにいいわけは考えてあるが、会わなかったら会わないほうがいい。
学校の連中は暇人ばかりで、噂好きな奴等が多いのだから。
保健室のドアを音を立てないようそっと開ける。
さすがにからからという音は聞こえるがそんなに目立つ音ではない。
しかし、さすが保健医の斉藤先生。
地獄耳というあだ名どうり、その音を聞きつけた。
「おや、森下君じゃないか。いったい放課後になんのようだね?」
斉藤は眼鏡を持ち上げながら聞いてくる。
「あの、相沢が倒れたんでちょっと心配で……」
拓海が正直に話すと斉藤はすこし考えて頷く。
「なるほど……青春か……」
「いえ、ちがいます」
拓海が疲れたように突っ込むと斉藤は腰を上げて、椅子を空ける。
「どちらでもいい。わたしは用があるから君が来てくれて大助かりだ。相沢さんは奥のベットだ。目が覚めたばかりで混乱していたが、もう大丈夫だろ。かえるときには鍵を閉めるように」
「はい」
拓海が頷いたのを見て斉藤は保健室を出て行く。
拓海はそっと、奥のベットに近づいた。
けれど宇美はすぐに気づいたらしくシャッという音を立てながらカーテンを開いた。
「……森下君?」
「おう、具合はどうだ?」
宇美が拓海を不思議そうに見つめる。
その視線が居心地を悪くし、拓海はぎこちなく手を軽く上げて挨拶をする。
「ん……。ただの睡眠不足と心労だって」
「ただのって……。それって何かあったんじゃないのか?」
宇美が教科書を棒読みするくらいに感情を込めずにいう。
拓海は心配そうに宇美の顔を見つめた。
「別に何も……。ただ、お兄ちゃんがドイツに留学するって聞いただけ」
宇美はなんでもないことを言うように無表情で話し始める。
「……それは……!なんでもないことじゃないだろ……!」
「……いつ帰れるかわからないって。もしかしたら向こうに永住するかもしれないって」
宇美はただ無表情に淡々と話す。
彼女は気づいているのだろうか。
自分の頬を流れ落ちる涙に。
宇美は涙をぬぐわずに、ただそれを無視して話し続ける。
「ほんと、馬鹿みたい。そういいながら、私に申し訳なさそうに話すの。いえばいいのにね、わたしが重荷だって」
「相沢……」
「気づかないくせに、わたしの思いがどうであろうと止めないくせに、何で聞くの?なんで「お前はどう思う」なんて聞くの?」
「あい……」
「わたしが止めろっていっても止めないのに……。止めさせる権利なんてないってわかってるのに……」
「もういい、もういいよ」
「どうして……気づいてくれないの?」
それは宇美の隠し続けてきた本心だと拓海は思った。
本当は気づいてほしい、この狂おしいまでの想い。
それは拓海にもある願い。
その関係を壊すのは怖い。
けれど、気づいてほしい。
相反する願い。想い。
気がつくと拓海は宇美を抱きしめていた。
宇美はそれを嫌がりもせずにされるままになる。
そして宇美は拓海の胸でただ声を出さずに泣いた。
拓海は宇美の頭を撫でるだけで何も言わない。
拓海のシャツは宇美の涙の分だけ重くなる。
抱えきれないほどの想いの分だけ重くなる。
宇美は拓海のシャツを握り締めたまま、泣き続けた。
拓海は宇美を抱きしめながら、自分の無力さを嘆いた。
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