片翼の恋


10.
きっと、そのとき私はその時を止めたくなっただろう。
聞かなかったことにしてしまいたかった。
真っ白な頭で私は時間の巻き戻しを願っていた。


「……ドイツ?」
宇美が確認をするように、永輝に聞く。
永輝は頷いて
「ああ、ドイツだ。そこには俺が世話になった人がいる。その人の元で勉強して、働きたいんだ」
「……」
「帰りはいつになるか分からない。もしかしたら、永住するかもしれない。大学には言ってある。向こうも人手が足りないから了承してくれたよ。……お前はどう思う、宇美」
どうしてこんなふうに聞くのだろうか。
宇美は永輝が初めて憎いと思った。
きっと心配してくれているのだろう。
独りぼっちになる自分を。
いつまでも帰ってこない両親よりも、宇美は兄の永輝になついていた。
永輝を尊敬していた。
愛していた。
なのに、今ある気持ちはなんだろう。
本当ならば、笑っていいよといってあげるべきなのに。
いきなよと言ってあげるべきなのに。
言えない。
兄の心を優先したい気持ちがある。けれど自分の気持ちを優先させる心。



行ってほしくない。



それが本心だ。
行かないでと泣きつければどんなに良かっただろう。
愛していると縋れればどんなに良かっただろう。
好きなのと気持ちを告白できたらどんなに良かっただろう。
けれど、どれも宇美には無理で……。


気がついたら笑っていた。


「私が反対するわけないじゃない」

うそ 私は反対している。

「そりゃ、寂しいけど。お兄ちゃんの決めたことならいいよ」

うそ 行かないでって思ってる。

「私のことは心配しないで」

気づいて、この気持ちに……



永輝は宇美の答えに安心したかのように笑った。
「良かったよ。宇美がいいっていってくれて」
宇美はその顔を見て、本当に行きたかったんだと思った。
自分をおいて、海の向こうの世界に。
きっと、そこには兄の求めるものがあるのだろう。
追い求めて、やっと手に入るのだろう。

「いついくの?」

宇美が震える声で聞いた。
永輝は少し考えて
「いや、二週間後には行きたいと思ってる。宇美がいやがったらもう少し伸ばそうと思ってたけど、早いうちに行きたいから」
「……そう」
「あ、悪かったな、こんな時間まで。じゃあ、今日はゆっくりお休み」
「おやすみなさい……」
宇美は最後まで聞けなかった。



それは女の人なの?



それは永輝の目を見れば明白で。
永輝の目は間違いなく、恋する目だった。
きっと向こうに好きな人がいるのだろう。
永輝がその人のために働きたいという。
宇美の中にどろどろの感情が生まれる。
だから聞けなかった。
少しでも希望は残しておきたかった。
こんな感情を表に出したくはなかった。
表に出すには最悪な感情。
永輝に向けるにはあまりに醜悪な感情。
これは心の底にためて置ければと思った。
だから、聞くことなんてしないで、おとなしくベットへ向かった。
宇美はその日、眠れるわけのない夜を過ごした。


体がだるい。
ぎしぎしいう。
学校を休もうかと思ったが、昨日の今日で休んだりしたら永輝も休もうとするに違いないと思ってやめた。
宇美は力なく、玄関のドアを開ける。
すると
「おい、今日は大丈夫なのか?」
と永輝に声をかけられる。
それをあなたのせいよなんて言えたら最高だろうなと宇美は思った。
宇美は青い顔を少しでも隠そうと笑顔を見せる。
「大丈夫よ、それよりおにいちゃんも残り少ない大学生活がんばって」
永輝も宇美につられるかのように微笑んだ。
「ああ、いってくるよ」
気づかれないようにやってきた。
気づいてほしいとは思う。
気づいてほしくないとも思う。
でも昨日のあの時以来、隠すのがとても辛くなっている。
心が弱くなっている。
どうしてだろう。
どうしてこんなに辛いのだろう。
宇美はぼやける頭でそう思いながら、登校した。


昼ごろになるとだるさは倍増し続けた。
目の前がくらくらする。
視界がぼやける。
教師の教科書を読む声も頭に響く。
それでも宇美はなんともないと自分に言い聞かせた。
今の不調はきっと精神的なものだから、認めてしまうとよわくなった自分をさらけ出しそうで嫌だった。
永輝のドイツへの留学がショックだなんて思いたくなかった。
まだ綺麗でいたかった。
醜い感情なんか捨ててしまいたかった。
だから、宇美は自分に平気だといい続けたのだ。
醜い部分を見つめてしまうのは、嫌だったから。
揺らぐ視線。
もう、教師がなにを行っているか分からない。
そう思った瞬間、宇美の視界はブラックアウトした。


起きてみると、真っ白な天井が目に入った。
その気配に気づいたらしく、斉藤が宇美に近づく。
「教室で倒れたんだ。もう少し寝ていろ。たぶん睡眠不足と心労だろうが、最近何かあったのか?まあ、詮索はしない。だが、自分の体調管理はきちんとするように」
宇美には心当たりがあるので、少し目を合わせないようにうつむく。
それにしても昨日あんなに寝たのに睡眠不足とは。
我ながら呆れてしまう。
きっと、心労は兄の留学。
しかし、それを理由にできるわけがなく押し黙ったままおとなしくベットに横になる。
斉藤は暫く宇美を見ていたが、異常なしと判断したのか宇美のそばから離れた。
そのとき、ノックが聞こえる。
宇美は布団をかぶり訪問者がどこかにいってしまうまで待った。
何度か宇美は保健室で身の上相談をしているところに出くわしたことがあるためあまり会話を聞かないようにしている。
今回もそうらしく、少々時間がたってから誰かが出て行くのがわかった。
そして気配がベットに近づいてくるのがわかる。
斉藤だと思い、宇美が開けたカーテンの向こうで決まりが悪そうに微笑んでいるのは成人した男ではなく……。


「森下君?」


思わず確認してしまった。
そこにいるなんて予想もしなかった。
頭が混乱しているのが自分でもわかった。
「おう、具合はどうだ?」
拓海がそう片手を挙げながらいう。
宇美は思わず呆然と拓海を見つめてしまったが、不意に疲れた笑みを返した。
「ん……。ただの睡眠不足と心労だって」
宇美がそう答えると拓海は驚いた顔をして
「ただのって……。それって何かあったんじゃないのか?」
という。宇美はそれになんて返していいか分からなかった。
それは無意識だったとしか言いようもない。拓海に話そうとは思っていなかったのに、口が勝手に喋り始める。

「別に何も……。ただ、お兄ちゃんがドイツに留学するって聞いただけ」

「……いつ帰れるかわからないって。もしかしたら向こうに永住するかもしれないって」

混乱しているとしか言いようがなかった。
意識して出た言葉ではない。
止めようとしても止まらない。
自分が何を言っているかわからない。
拓海が途中で何かを言おうとしているのはわかったが、何を言っているかさえもわからなかった。

「ほんと、馬鹿みたい。そういいながら、私に申し訳なさそうに話すの。いえばいいのにね、わたしが重荷だって」

「気づかないくせに、わたしの思いがどうであろうと止めないくせに、何で聞くの?なんで「お前はどう思う」なんて聞くの?」

「わたしが止めろっていっても止めないのに……。止めさせる権利なんてないってわかってるのに……」






「どうして……気づいてくれないの?」






最後に出てしまったのは本音。
気づいてほしかった。
自分の気持ちに気づいて、受けとめてほしかった。
嫌悪しないでほしかった。
返してほしいとは思わない。ただ、受けとめてほしかっただけなのに……。


不意に、何か暖かいものが自分の周りを包み込んだのがわかった。
それが、拓海の腕だと気づくのに時間がかかった。
何で自分がここにいるのだろうと宇美がぼんやりと考える。
そしてそれは拓海の優しさなんだと思った。
同情しているのだと思った。
でも、宇美にはその同情でさえ、嬉しかった。
そう思うほど拓海の腕の中は、温かかった。
本当はここにいるべきではないのだろう。
けれど、宇美には心地よかった。
その行為に愛とか恋とかが関係しているわけではない。
ただの同情から来る行為。
それでも、温かい腕の中で宇美は涙を流す。
そこでやっと宇美は自分が泣いている事に気づく。
自分が臆病だと思った。
そしてこずるい人間だとも思った。
消してここは宇美のいるべき場所ではなく、拓海の思い人にこそふさわしい場所なのに。
けれど、少しだけこの腕の中を独占しよう。
せめてこの涙が止まるまで。
この同情に満ちた行為に身を任せよう。
宇美はそう思って、思う存分、泣いた……。
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