……だって運命だと思ったんだ。 彼女の事を見てからずっとずっとその顔が離れなくて。 彼女の声を聞いてから、どんなものよりもその声が聞きたくなった。 会ったのは偶然としかいえない出会い。だけど俺にとっては運命の瞬間。 だからあきらめるなんて、したくないよ。 お願いだから俺を見て。 俺を、……頼って? いつものような午後だった。雨は降っているけどね。 春雨って言うんだっけ、春の雨。良い感じに降る雨は俺の傘を鳴らす。 雨でもうきうきしちゃうのは、春だから? 春は好き。みんながわくわくしているような気がするから。 不安と期待に胸いっぱいって言うのはあながち嘘じゃない。 「こんちわー!」 「あら、いらっしゃい。強吾君」 にこやかに立っている美女。 本当に綺麗な人だと思う。これで母親ぐらいの年だといわれてびっくりしたのはまだ記憶に残っている。 「相変わらず綺麗だね、ママ」 スナックのママである彼女は俺にそう呼ばれるたびに少しさびしそうに笑うけれど、俺は彼女の名前をかたくなに呼ばない。 彼女の名前を呼ぶ人は彼女に選ばれた人だから。 俺も選ばれてないなんてすねる事はないけれど、だけど俺より付き合いの長いあいつだって呼んでないんだから俺が呼んじゃ変だろうとも思ってるし。 あいつが呼ばない理由は……まあ、単に照れくさいからだろうけどね。 まあ、それだけが理由だからこそ俺も名前で呼べないってことになるんだけど。 多分名前で呼んだらあいつ拗ねるからねー。 高校はいったばかりの俺がこういうところに出入りすると結構問題になるかもしれないけれど、ここほど俺に優しい場所はない。 母さんがここに勤めていたと聞いたときは驚きしか感じなかった。 あの温厚な人がという思いが強かった。 だけど今なら分かる。きっと、ここは母さんにとって一番向いている職場だったのだろうと。 子供の話でも真剣に受け止め、優しくアドバイスしてくれる母さんだったから。 大人気だったのよ、とママが言うのはちょっとお世辞も入ってるかもしれないけれどきっとそうだったんだろうなと思う。 水商売と聞いただけで眉をひそめる奴らもいるけれど、少なくともここの人たちはそんな奴らよりも優しく強い。 だから高校入った直後、バイトしなくてはならなくなったときに真っ先にここに頭を下げた。 こういうときの俺のしつこさは天下一品! さすがのママも根負けしてくれたけど、実は結構渋られたりしているのは事実。 実際青少年である俺がここにいるのは好ましくないと思っているらしい。 だけど、それでもここのほうがほかにバイトに行くよりは断然良い。 家も近いしね。いろいろ気心が知れているほうがやりやすいしー。 「あれ? 今日は慧治休み?」 あいつの名を呼ぶとママは必ず複雑そうな顔をする。 あーあ、だから不良なんてやめろって言ってるのに。あいつも結構頑固者だからねー。 「まあ、いろいろあるんだよ。お年頃だし」 そう慰めるとママは笑ってくれる。だけど、きっとそれは俺のために笑っているのだろう。 慰めてくれたのにという気持ちで。 そういう気の使い方がうまい人だと思う。暖かな笑みで誰かの傷を癒せる人。 「ねえ、ママ。まだ紅塗ってないなら俺がやってあげる」 こうみえても俺は結構女の人の化粧がうまい。……まあ、それは慧治の受け売りだけど。あいつも結構つっぱってる割には細かい性格だよなー。 自分で化粧したことはないけど、自分でしてもうまいんじゃないかな。はっきりいって器用だし。 「そうね、お願いするわ」 ママがうなずくと近くにある椅子に座ってくれる。そして自分の口紅を出して俺に渡す。 「あ、新色だ。お客さんにもらったやつ?」 「ええ、私にはこういう落ち着いた色のほうが似合うだろうって」 確かにママにはオレンジとかピンクとかよりもちょっと大人な色のほうが似合ってる。 でも着ている服がちょっと暗い色だからもう少し明るくても良いと思うんだけど。 「じゃあ、目を閉じてね」 ママが素直に目を閉じてからゆっくりと紅を乗せた。 口紅を直接塗るんじゃなくて刷毛のようなものを使えば丁寧にできる。その正式名称は知らないんだけどねー。 丁寧に縁取りをして、それを基準に塗っていくとほら。 「うーん、さすが俺!」 「本当に強吾ちゃんはうまいわねー」 いつの間に来たのかエリさんが興味深げに覗き込んでくる。 「エリさんもする?」 今日は特別だ。結構調子良いしね! エリさんはちょっと迷うように、首をかしげた。 「そうねー、やってもらいたいのは山々なんだけど……」 「そういうことはほれてる女にやれよ」 おや、そこにいるのはマイ親友慧治君ではありませんか。 「慧治、久しぶりー。ちゃんと高校いってるかー? 一年くらいは通えよー」 そう茶化すと、慧治は不機嫌そうな顔をする。そういわれたくなかったら言われないようにすれば良いのに。 「ちゃんといっているよ。そこら辺のちゃらんぽらんと一緒にするな。お前こそ、ちゃんと授業についてけてんのか」 うわー、嫌味だー! どうせ俺はお前と同じ高校いけるくらいの学力なかったよーだ! こいつ、悪ぶっているわりには頭が良い。……あれ? 悪ぶってると頭とは関係ないか? 「あ、そういえば強吾ちゃんに頼みたいことあったんだ」 エリさんがごそごそとバックの中をあさりだした。そして紙切れを俺に渡す。 「悪いんだけどさ、これ買ってきてくれる? 多分そろそろ仕入れ始まるころだと思うし」 「ん、いいよー。掃除終わったらね」 ここで働いている人たちの買い物もバイトの仕事。 最初は遠慮していたお姉さん達も今では結構抵抗なく使ってくれている。 まあ、これくらいしなきゃ高校生にとっては結構良いバイト料もらってるのにはつりあわなくなっちゃうからね。 「慧治、そこふいといてねー」 とりあえず立ってるものは王でも使おう。 どうせここには大した用事がないんだろうからさ。 どうせしぶしぶだろうがなんだろうが、奴はやる。口では文句たらたらだけど。 あ、でも本人にとっては大した用事か。なにせお義母さんの店なんだから。 まあ、でも奴は口で言うほどママを嫌っていない。 ただ、不器用だから何もいえないだけ。ただ、父親との不仲がママに対しても影響を及ぼしてるだけ。 そんなこと関係なく仲良くしちゃえば良いのにね。 「よし、掃除終わり!」 考え事しても腕は動く。うーん、俺って優秀! 「じゃあ、よろしくねー」 「気をつけてね」 「帰ってくんな、馬鹿」 暖かい声に送られるのは結構快感。家では由菜にしか送られないからね。最後の言葉は聞かなかったことにしよう。 街のざわつきは俺は結構好きだったりする。 なんていうか、ああ、一人じゃないんだなって思える。 騒がしいところは嫌いだと慧治とかは言うけれど、この騒がしさが俺は好きなんだけどなー。 でもまあ、今日はエリさんが待ってるからさっさと終わらせようっと。 うろうろとそこら辺を見てみると、目当ての雑誌を見つける。……なるほど、これはエリさんじゃ恥ずかしいだろうな。 っていうか俺でも恥ずかしいかもねー。 まあ、いいけど。 「領収書ください。上様で」 にっこりとそういうと、店員さんは変な顔をする。 そりゃこの雑誌を領収書もらう理由なんてあんまりないだろうけどね。 まあ、エロ雑誌は俺買えないからそうじゃないだけまし? かな。 さっさとお金を払ってついでにそこら辺をぶらぶらする。そろそろ由菜のこともあるし帰らなきゃならないんだけど。 そして奥のほうにある人物を見つけた。あの後姿は絶対 「相楽っち! どうしたのこんなところで!」 ただいまの担任、相楽暁灯先生。 童顔を気にしていて、友達のような先生になりたくないのにいつの間にかなっていたというようなちょっと間抜けな先生。 まあ、でも顔は良いほうかもね。超美形! ではないけどまあ見れない顔じゃない。 「師原か? お前こそこんなところでなにやってるんだ?」 どうせ読むのは漫画か雑誌だろうとからかう顔が子供っぽい。 ニヤニヤと笑っていてもどうしても幼さが抜けない相楽っちがちょい哀れ。 「違うよーだ、これもバイトのうちなの!」 「バイトって、うちの高校バイト禁止じゃなかったか?」 「俺は届け出だしてるよ」 うちの高校は一応進学校のひとつだからバイト関連は厳しい。 するならそれなりの手続きをしないと許可されない。 まあ、俺の場合知り合いのところということと親が許可しているってことが認められて許可されたけどね。 「まあ、がんばれよ、勤労少年」 そうやってにやりと笑う姿はまあ教師だなと思う。 俺もにっかりと返すとばいばいと手を振ってくれる。結構良い教師だと思う、プリント課題が好きじゃなければ。 さてと、さっさと帰りますか。エリさんも待ってるし。 と帰路を急ごうとした。 急ごうとした。 けれど、俺の脚は止まっていた。 なぜか分からないけど、俺の脚はここから動きたくないといっているように。 いや、足だけじゃなく、何もかも静止した。 手も、顔も。視線さえも。 ただ、動かない。 ただ雨が降っていることだけは分かって。ああ、傘を差さなきゃとも思って。 でも、動けない。なんで? 何も聞こえない。 ただ、見えるのは一人の女性。雨の中、傘も差さずに。泣いているわけではなく、笑っているわけでもなく。 ただ上を見上げているはっきり言っちゃえば変な人。 なのに、何で目が離せないんだろう。 いつもだったら傘を差し掛けるくらいはしてるのに。 何で動けないんだろう。 あなたが見ているものは何なの? なぜかそれが知りたい。 ただ、そこに存在するだけで釘付けにするあなたの。 見てるものは何なんだろう。 からからに渇いたのどがなる。 ごくりと、大きな音を立てる。 「どうしたんですか」 どれくらい、彼女を見ていたんだろう。 気がつけば、俺は雨の中にいて。 エリさんに頼まれていた雑誌はずぶぬれ。 とんでもないことになっているのに、なぜか気にならない。 ただ、この人が……なに? 「濡れますよ」 俺はさっと傘を広げた。まだ自分は取り返せていないけど、傘を開くくらいの余裕ができた。 結構大きな傘でよかったと思う。これが折り畳み傘だったらちょっと情けない。 彼女は不思議そうな顔をして、俺を見る。見上げるって言うふうにならないのは、俺が彼女と同じ位の身長だから。 間近で見る彼女は――綺麗だった。雨に濡れた髪がきらきら光って、女神様みたいだった。 自分の心臓の音がうるさい。走った後のように、どくどくと激しく血流が流れる音が聞こえるような気がした。 「師原? なにやってるんだ?」 ビクッと方がなるのが分かる。それくらいびっくりした。 俺はなぜかこの世に自分と彼女しかいないような錯覚をいつの間にか覚えていた。 きっと彼女を見つめている時間が長かったせいだろう。相楽っちが本屋から出てきた。 かなり変な顔をしてる。って、多分俺の状態も変だけど。 「あれ? そこにいるのは富倉じゃないか?」 とみくら? それって彼女の名前? 「相楽先輩? どうしたんですか、ここで?」 彼女も驚いたような顔をしている。ちょっと複雑なのは、なぜ? 「ああ、今日は資料を見に。で、何でお前はうちの生徒に傘さしてもらってんの?」 生徒という言葉を聞いて、合点がいったというように彼女はにこりと笑った。 その笑い方は、子供に向けるような笑い方で俺はその笑顔が綺麗だと思うと同時に少しいらついた。 「あ、相楽先輩は確か高校の先生でしたね。あなたは高校生?」 俺は何も言えずにこくりとうなずいた。人見知りなんてしたことないのに。何でこの人の前ではこんなに……。 ああ、緊張しているのだろうか。緊張なんてする場面じゃないだろ! 「ありがとう、でも大丈夫よ」 と傘を自分からはずさせる彼女。それはどういう意味? 「お前は雨がそんなに好きか?」 茶化すようにいう相楽っち。先輩ということは、それなりに親しいのだろうか。 自分のことを先輩と呼んでくれた中学時代の後輩のことを思い出す。 「……ええ、それはもう大好きです」 悲しげに笑う女の人は、一瞬ママにかぶり、そして母さんに代わる。 俺は思わず、ポケットを探り出す。彼女は濡れてるし……なきそうにも見えたから。 はっきり言って女の人に渡すようなものじゃない、ぐじゃぐじゃのハンカチのしわを伸ばして頬に当てた。 彼女がこれ以上悲しそうな顔をするのはいやだった。できるなら、また笑って欲しい。 わがままはいわないから、子供に向けるような笑みでも良いから。 笑って? 寂しげなあなたの顔を見るのは……いやだよ。 その思いが通じたのかどうかは分からない。ただ、彼女はいたわるように、ふわりと笑った。 その瞬間、俺の視界から雨も傘も、人も消える。 ただ、彼女だけが残る。 ただ、偶然かもしれなかったあの瞬間、俺は恋に落ちたんだ。 運命なんて信じなかった。信じてもどうにもならないって知っていた。 だけど、あなたに会った瞬間運命ってあるんじゃないかって思ったんだ。 |