タバコは嫌いだけれどこの煙はすごい好きだと思う。
 この煙は先生の言葉と同じように私に浸透していくのだから。
 私に前を向く勇気をくれるのだから。

「え、相楽っち、学校変わるわけ?」
「変わるんじゃなくてやめるのよ。ここは私立だから公務員じゃないもの。他の私立の高校に雇われるか、公務員試験を受けるかしなきゃ。それに時期が時期だから塾講師のほうが先になると思うし」
 師原が脳に言葉がいきわたっていないのかどうかしらないけれどくりくりとした目をしたまま首をかしげる。
 それはまるでゴールデンレトリバーの子犬を思い出させた。
 ああ、こいつは犬系だよなとなんとなく現実逃避。
「やめるっていったって、今のご時世教師の居所なんて限られているでしょ? 少子化問題真っ最中だしね。まあ、でもその分教育ママとか増えているから就職口がまったくないってことはないんだろうけどね」
 桜は相変わらず勘がいい。
 なんとなく私の心を読み取っているみたいに私の頭を撫でてくる。
 私はそれをわざと鬱陶しそうに払う。
 そうでなければ実感してしまう。
 私は捨てられたのだと。いや、アキ兄にそんな事微塵も考えていないに違いない。
 捨てられた女というよりはリストラされたサラリーマンのほうがあっているかも。
 と自虐的な事を考えながら自分を慰めている今日この頃。
「本当にやめるわけ?」
 師原、その捨てられた目はやめてほしい。
 桜は思いっきり苦そうな顔をしている。
 思わず拾いたくなる目だ。桜は特に苦手の同情したくなっちゃうような目。
 それは私にまざまざと現実を突きつける。
 現実なんてアキ兄の前だけでうんざりなのに。
「……なんか、こうなるとやっぱり俺たちは子供なんだってこと突きつけられる気がするな」
 師原らしくない物言いだと思った。
 まるで私の心を覗きこまれているような、それで同情されているようなそんな感じ。
「なに? 師原らしくないじゃない。どうしたわけ? アキ兄だってそんなに早くやめられるわけじゃないわよ」
 何で私が慰めているんだろうと疑問が浮かぶ。
 きっと一番落ち込んでいるのは私のはずなのに。
 けれど、傍目から見れば師原が一番落ち込んでいるように見えた。
 こういう時一番強がるのが師原だったのに。
「……俺、こういうこと言いたくなかったんだよな。なんか女々しくて」
「何が?」
 桜が心配そうに聞く。桜はきっとあの「うるうる目」がなくても師原には人一倍甘い。
 師原でなかったら桜は軽く流すぐらいに留めておくだろう。
 でも聞き返すということは相談に乗る気があるということだから桜にしては破格の対応だったりする。
 ちなみに私にはその二倍くらいは甘い。イメージとしては師原にはショートケーキぐらいで私にはそれにに濃度の高い蜂蜜をかけた感じだ。
「まあ、ありがちで予想済みだった話だ」
 師原にしては歯切れが悪い。
 いいたくないというよりも認識したくないというように。
 顔は笑っているのにどこかすごくうつろで。
「志津子さん、アメリカいくんだって。何年いるのかは分からないってさ。それで落ち込んでんの。……女々しいだろ?」
 師原は似合わない苦笑をしながらそう言った。
 桜が眉にしわを寄せているのが分かる。
 いつもの師原だったら「俺もアメリカに行ってやる!」ぐらいのことは言うし、無謀にも実行しようとするだろう。
 しかし師原はそんな事いえない。
 師原には病弱な妹がいるから。というか妹しかいないから。
 おとなしくて笑った笑顔が柔らかくて、けれど暗くはないなんとなく冬に見つけた日向を思い出す。
 師原の家にはお母さんがいないというのは聞いた事がある。まあ、今のご時世珍しくはないだろう。実際にそういう家庭の人はクラスに3人いる。
 父親は海外赴任中。師原自身、三年間会っていないという。まあ、まめに手紙のやり取りをしているからそんなに深刻な事ではないけれど、その状態で妹を置いていけるほど師原は無謀ではなかったということだろう。
「なんかさ、こうなってくると俺たちが子供だからっていう事が強調される気がするんだよな」
 そう、子供。私達はまだ発展途上な存在なのだと突きつけられるときがある。
 大人だったのならばもうすこしうまく立ち回れたかもしれないのに。
 大人だったらついていったり、引き止めたりできたかもしれないのに。
 でも子供の私達は置いていかれることを嘆くしかない。
 子供はいいなと呟く大人がいるとしたら今すぐに交換してほしいと思う。
 子供がもつきらきらしたものなんていらない。
 大人の汚さも受け入れるから。
 大人になりたい。対等になりたい。
 私達の願いはそれだけ。それ以上は自分の力でなんとかするから。
 この埋まらない距離をどうか埋めて。
 それだけで全てが解決するとは思わないけれど。
「ねえ、前から聞いてみたかったんだけど聞いてる限り全然脈はないと思うんだけど何で諦めるって選択肢がないわけ? あんたには」
 桜が心配そうに言う。
 諦められないとか諦めないとかそういう感情は桜だって知っているだろう。
 けれど師原は一度でも「諦める」という選択肢を考えた事があるのだろうか。
 諦めないという言葉は諦めると言う選択肢を一回でも考えた上で出てくる言葉だ。
 それなら普通だと思う。
 けれど師原はそういう言葉を志津子さんに対して使った事があるだろうか。
「あんたさ、志津子さんとの年の差って考えたことある? 4歳よ? まあ、大人になっちゃえばそれくらいの年の差は普通にあるし、私達ぐらいの年で大学生と付き合う子だって確かにいるわ。でも、私達にはあまりにもその差は大きい」
 確かに大きい。
 私とアキ兄よりは小さいとはいえど確かに私達の年代で4年はあまりに大きい。
 現に私はもうとっくの昔に諦めた。そして今も諦めようとしている。
「確かに諦めないとか諦められないとかいうのなら私にも納得できるの。でもさ、あんたの言動を聞いてると諦めるという選択肢すら考えてないような気がするんだけど、間違ってる?」
 普通なら桜の言っていることは間違っているのだろう。
 一度だって辛い片想いをしていれば考えた事がないわけない。年の差があれば当たり前だと思っていた。
 けれど師原は静かに首を振った。
「間違ってないよ。俺は「志津子さんのことを諦める」ってこと考えたことないもん」
 思わず師原の顔をじっと見てしまった。
 どういう神経しているんだ、こいつは。あれだけ脈のなさを強調されてるのに。
 桜も呆れたような顔をしている。
「あーと、無意識だったらどうにかしようとしたんだけど、もしかした故意にそういうこと考えなかったわけ?」
「あったりまえじゃん。毎回毎回志津子さんに遠まわしに言われていて故意にそう念じてなきゃ考えるに決まってんじゃん。俺、単純だもん」
 あっけらかんとして言う師原はふと大人の顔つきになった。
「だってさ、俺たちの関係ってそう考えたら一気にそこに向かわざる終えないような関係だよ? 向こうはスペシャルな女の人で俺はまあ、高校の落ちこぼれ。しかも相手はもうすぐアメリカ行き。そこでいい人がいてあっちで結婚っていうふうになるかもしれない。そうなっても不思議じゃないよ、少なくとも志津子さんが俺に惚れるよりはさ」
 師原は教室の窓から空を見上げる。
 夏の太陽にふさわしいぐらいの熱量を持った光が師原に降り注ぐ。
 こういうときに思う。師原は光の下が一番にあうのだと。
「だから俺は諦めるなんて考えない。そう考えた時きっと俺はそっちのほうに行くから。そう確信がもてるから俺はそう考えない。そんな選択肢いらない」
「……もしそれで傷ついても? 志津子さんと師原が傷ついても?」
 私は恐る恐る聞いた。聞きたくて、答えが知りたくて。
 師原が肯定したら私は自分の行いが間違っているような気になるのだろう。
 けれど師原には肯定してほしい。今の私を否定してほしい。
 師原はにっと余裕の笑みで笑った。
「俺は志津子さんのことで傷ついてもいくらでも笑ってみせる自信がある! 志津子さんが傷つくのに気づいたらそうならないように他の方法でアプローチすればいい。諦める布石としてはぜんぜん足りないよ。なあ、少しでも最上の幸せへの可能性があるのならそれに賭けてみるのも子供ならではの特権だと思わないか?」

 師原の答えは私のもやもやした部分を消し去ってくれる。
 師原の瞳は明るい未来にしか向いていない。暗い未来など師原は考えない。
 そして暗い未来は師原には似合わない。
 そして私はそんな師原を羨ましく思っている。
 どうしてそんなに前向きになれるの? 望む未来なんて手に入れられない可能性のほうが大きいのに何でそんなに平気そうでいられるの?


 ここはいつも煙で充満している。
「いい加減にしないと肺がんで死にますよ? 御蔵先生」
「そうですねー」
「知ってます? 副流煙って私の肺にもダメージを与えるそうですよ?」
「そうですか」
「そういっても止める気にはならないんですね」
「ええ、これは先短い老いぼれの楽しみとしてとっといたものですから」
 これは毎回毎回ここに入るたびに繰り返されたやりとり。
 はっきりいってここには気管支の悪い人は入ってこれないと思う。
 煙がもやのように御年56歳の古典教師の顔をぼやかしている。
 換気扇は回っているが煙の処理が排出される煙に追いつかない。
「で? なんのようですか?」
「おや、わかりませんか?」
 少し考えてみるけれど思いつかなかった。
 少なくとも現代文より古典の成績のほうがいいほうだと思うし、素行ははっきり言って目の前の教師よりはいいと思う。というかこの先生が何か素行に関して口出ししてきた事がなかった。
「まあ、あなた自身のことではないんですよ。実は相楽先生のことでね」
 そういいながらタバコの煙を出す。
 話すときぐらいタバコを消せよとか思わないでもないけれど、実はこの人のタバコのにおいは好きだったりする。
 アキ兄も吸いそうな感じはするけれど吸ったところは見た事がない。
 まあ、それはお姉ちゃんがタバコ嫌いなせいもあるんだろうけど。
「相楽先生が辞表を出したのは知っていますね?」
「ええ、まあ、いちおう親戚ですし」
 私はあいまいな返事をする。実際、アキ兄が遅かれ早かれ辞表を出すのは目に見えていた。それが思ったより早くても何の問題もない。
「まあ、相楽先生も成人しているのだから私がなんだかんだ言っても仕方ないことなのですけどね」
「だったら言わなきゃ良いじゃないですか」
「でもですね、あなた同様彼も私の教え子なのですよ」
 御蔵先生はにっこりとウインクする。
 うーん、お茶目なジジイだ。私はこれほどウインクが似合うジジイを知らない。
 そう、アキ兄はここの元生徒だ。私の先輩に当たる人だ。
 もっとレベルの高いところにいけたはずなのだがなぜか選んだのはここだった。
 まあ、理由は勿論お姉ちゃんと紗波さん。
 確かにその頃には紗波さんはともかくお姉ちゃんはラブビーム発射中だったらしいから居心地は悪いだろうけど。
 志津子さんはアキ兄の高校の後輩ってわけじゃないからここの高校ではない。考えてみれば志津子さんでも中学、高校とアキ兄と同じ学び舎で過ごせる計算にはならないのだ。志津子さんがアキ兄より大人っぽいから忘れがちだけれど志津子さんでさえ4歳も離れている。
(あ、そうなると師原にまったく救いがないわけじゃないのかな? 少なくともアキ兄が初恋だって言ってたから年の差はあんまり考えてないのかも。ああ、でも年上と年下じゃ違うしな)
 と再び現実逃避。最近現実逃避が多いのは間違いなく不甲斐ない義兄のせいだと思う。
「といっても、アキ……相楽先生が頑固者だって言うくらい知ってるでしょ?」
 そうでなければ10年以上初恋なんて引きずらないだろう、普通。
「ええ、相楽先生……いや、暁灯君はあなたぐらいには強情でしたね」
「分かってるなら言わないでください」
 期待してしまうからなんていわない。期待なんて最初からしていない。しちゃいけない。
「でも私にとってはずっと可愛い生徒ですからついつい手を出したくなる」
「……なんでですか?」
 アキ兄は多分間違っていない。間違っているのは私の方なのだ。
 子供のわがままで止めようとしている私のほうなのに。
「江原さん、相楽先生に何があったのかは知りません。けれど何か迷っているのは分かります。そしてあなたも何か迷っている事があるのも分かります」
 そのことはまるで何の事がないかのように軽い口調でタバコをふかす。
「迷っている時に決断してはいけませんよ。迷っている時に出す答えは大抵逃げることでしかない。追いかけてこない悩みならそれもよし。けれど、あなたの迷いはそんな事では晴れないでしょう?」
「……やだなー、御蔵先生! 私はもう迷ってませんよ! ……もうとっくの昔に決めましたから。アキ兄に関しては傍観者でいると」
 そう。何も影響を与えない傍観者でいたい。
 そうしたいのに、心が否定する。
「江原さん、心を否定したらいけませんよ。時には理性をかなぐり捨てて感情で動くことも大事です」
「……そんな事言ったって、私はそんな……」
 そんなにアキ兄に深く浸透しているわけじゃない。むしろ今は排除されようとしているのにどうしたらいいというのか。
 御蔵先生のいいたい事は分かる。
 でも私はどうしたら良いかさえ分からないのに。
「間違ってたら相良先生は正してくれますよ。確かに私にとっては生徒ですが相楽先生はあなたにとっては先生でもあります。だから頼って御覧なさい。自分の心のうちを吐露してしまいなさい。大丈夫、そんな事で嫌われるほどあなたと相楽先生のつながりは薄くないですよ」
 「でしょう」じゃなくて「ですよ」と確信している。
 確かにヘビースモーカーで、人のこと考えないで、ふざけた年寄りだとは思うけど御蔵先生はこういう時信頼できる先生だと思う。信頼してもいい先生だと思う。
 その教えが絶対ではないけれど、絶対のような気にさせる。
 何もいえないでいる私に御蔵先生は得意のウインクをよこす。
「後は自分で決めなさい。後悔しないようにね。大丈夫、あなたには味方になってくれたり慰めてくれたりする人が私を含めてたくさんいますよ」
 と再び私に気にせずにタバコを吸うのに集中し始める。
 ふと、師原を思い出した。
 師原は何もあきらめていないのに何で私だけが諦めなきゃならないんだろう。
 アキ兄は私を子ども扱いしてるのに何でもの分かりのいい大人を演じなきゃならなかったんだろう。
 まだ私は子供だから、悪あがきをしていいんだと思うことにする。
 子供だからこそ、諦めが悪くていいんだといわれたからそう思う。
 師原も同じように感じたのだろうか。だから諦めるということを考えなかったんだろうか。
 彼のように強くなりたいと思う、いや強くならなきゃならないと思う。
 でなければ私はアキ兄を止められないから。
 大人の分別なんていらない。子供の強さでアキ兄が止められるのなら私はそれを受け入れる。
 御蔵先生がタバコの煙と共にいった言葉を忘れない。
 それだけが私にとっての唯一の道標だから。
 きっとそれを見失った時、また再びわたしはアキ兄と別れる道を選ぶのだろうと思うから
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