この仕事について思うのは、人間関係は難しいということだ。 ストイックそうに見える職業でも、人間関係はどろどろしている。 妻子もちの教授と不倫する生徒もいるし、ほかのところよりもどろどろしているんじゃないかと感じる。 大学に残り、人生を学問にかけるのだと信じきって早6年。 俺はつかれきっているのかもしれない。 「それはさ、あんたがあんまりにもロマンチストだからじゃないの?」 あきれたように昔馴染みである智子がカクテルグラスのふちを人差し指でなぞっている。 「大体あんたも私がいるくせに人の恋愛ごとにごちゃごちゃ言える立場じゃないと思うんだけど?」 智子とは大学時代からの付き合いだ。 学問に人生をかけると握りこぶしに力を入れる前からの。 ロマンチスト。 智子はいつも俺をそう称した。 ロマンチストは男にとって結構恥ずかしく思う言葉なのだけれど、まあ、間違ってはいないと思う。 別にどこかの教授のように「天才」と呼ばれたわけではない俺が大学に残る決意をしたのは俺が「ロマンチスト」ゆえだろう。 「でもお前と仕事は関係ないだろ?」 仕事と恋愛はちゃんと区別すべきだと思う。 恋によって崩れ去っていった国もたくさんあるというのに、いまだになぜ人類はそれから学ぼうとはしないのだろう。 仕事は仕事。プライベートを持ち込むべきではないのだ。 その持論に智子はころころと笑った。 「馬鹿ねー。そう切り離せないのが人間なのよ。すべてあなたの専攻している数字で片付くわけではないわ」 智子はいつもそういって俺の頭をなでる。 いまだに俺が幼いねといわれているようで。 悔しさと、妙な心地よさに俺は黙ってそれを受け入れた。 いや、これで安心することに男としてのプライドは痛むんだけれど。 「だいたい、プライベートもパブリックも合わさって人間よ? それを嫌っていちゃだめよ?」 智子はそういって、くいっとグラスを開ける。 赤く半透明な液体は智子の唇から入り、のどを通り、智子の一部となるのだろう。 誰かが食べる姿はエロティックだといっていたが、確かにそのとおりだと思う。 寝る姿にも性的興奮を感じるやつがいるから、おそらく人間の欲求は性的なものをたぶんに含ませているのだろう。 でも、それでかぶりつくほど俺は若くなかったらしい。 ただ、バーテンにお代わりを求める智子をぼんやりと見ているだけにとどまった。 昔も今も変わらないと思っていたが、そうではなかったらしい。 まだ若いつもりだった俺には複雑な事実だったけれど。 「だいたい教師がストイックなんてずっと前の時代の話よ。今はセクハラだ、何だって騒がれているじゃない」 「それは一部だよ! それに俺は教師が何だらじゃなくてだな」 「はいはい、わかりましたよ。わかったから飲みましょ?」 理想論は聞きたくないのか、智子はそういってカクテルグラスを俺の目の前に掲げた。 赤い、赤い、液体。 それを聞いて思い出すのはまず最初に血の色だけれど、この液体は透明すぎて血の色などには見えない。 ただ、どこか懐かしい。 (そうだ、駄菓子のストロベリーゼリーに似てるんだ) 妙な人工的な赤さで、ストロベリーなんて思えない色だったけれど、イチゴシロップの味がした。 正式名称は知らないけれど、そういう感じの菓子は昔から好きだった。 ケーキとか高級な感じのものよりも、安っぽさが妙に好きだ。 今はほとんど口に入らないものだけれど、こういうときにふと思い出す。 (そういえば、あのときから俺って数学好きだったよな) 図形などはよくわからなかったことが多かったけど、数字の並びはまるで秘密の国の暗号のようでわくわくした。 考えてみればそれは確かに暗号だったのかもしれない。 がんばれば答えが出て、そのときの達成感を忘れられないからきっと俺はまだこの世界に依存しているのだろう。 それを考えると少し笑えた。 「俺って本当に数字馬鹿?」 智子はそれを聞いて、怪訝そうな顔をしたけれどすぐにくすりと笑った。 「今頃わかったの? あんたは世界で一番数字が好きなのよ。きっと私よりもね」 この罰当たりめが、と智子は笑った。 艶然とした笑みで。 きれいな彼女にはその笑みがひどく似合っていて、思わず若くない俺の心にもヒットした。 (こういう表情って色っぽいよなー) 思わず手に取ったグラスを一気飲みする。 そういうのみ方が体に悪いことは知っているけど、まあ、許してもらおう。 「いいんだけどね、私ももう数字に勝とうとは思わないし」 比べられないだろう、それは。 俺のしかめた顔に、智子は色っぽいしぐさでしわを伸ばすように眉間をなでる。 「でもね、数字と私以外にとらわれちゃいやよ?」 にっこりとそういう彼女を思わず凝視する。 智子がこういうことを言うのは珍しい。 酔っ払っているのだろうか。こいつは酔うと顔に出たか? 酔ったように見えない顔で、智子の唇は悠然とした笑みを浮かべる。 「もしも私以外の人に恋したら」 俺の頭の中にもうすでに数字はなく、ただ智子の声が響く。 緊張する俺を尻目に、智子は続ける。 「浮気したら只じゃ済まないからね」 笑みをかたどった唇は、俺のそれに軽くぶつかった。 「只じゃ済まないって?」 にやりと笑い返した俺に智子はますます笑みを深くした。 「あら、女って怖いのよ? 優しい動物だなんて思わないでね」 それが答えなのだろう。 俺はホールドアップの姿勢で、彼女に投降する。 ああ、俺って若いなーとさっきと逆のことを思った。 そして、俺たちはもう一度、今度は情熱的なキスをする。 俺の頭に数字がよぎるのは翌日になるだろう。 |