がくがくと震える手。
 どうせいつものことだと思いたがっている心。
 だけど、分からないじゃないか。
 いつだって大事なものは突然なくなるんだ。
 慧治もそうだった。突然母を失った。そのときのことを俺は覚えているのに。
 それなのになんで俺は失わないなんていえる?


 誰か、助けて。この真っ白な空間で一番大切な人を奪わないで。


 志津子さんは気を使って病院まで送ってくれた。
 このままじゃ貴方が事故を起こしそうだから少し落ち着くようにといいながら。
 優しく手を握ってくれた。
 それが少し申し訳なかったけれど、気になるのはそういうことじゃなくて。
 顔見知りの看護士さんを捕まえて状況を聞く。
「大丈夫よ、もう持ち直したから」
 優しい言ってくれる言葉。
 それだけで足から崩れ落ちそうになるのは何でだろう。
 そして教えられた病室に急いだ。
 そこにいるのは唯一無二の妹。
 誰よりも大事に、そう、本当なら志津子さんよりも大事にしなきゃならない人。
 それをいったら由菜は怒るだろうけど。
 だって約束したから。あんまり覚えていない母さんとの曖昧に覚えている誓い。
 ただ、それを誓ったのは本心で。
 由菜がいなくなるのは嫌だと思うのは紛れもない事実で。
 深呼吸してから病室に入る。
 多分意識はあるだろうから、心配させちゃいけない。
 不安そうな顔を見せちゃいけない
 笑ってなきゃ。
 由菜が一番辛いんだから。由菜に余計な心配させちゃいけないんだ。
 震えてるのに気づいた手を握り締める。どうか気づかないで、震える手に。
 優しいお前は気遣うことを覚えてしまって、それがまた辛い。
「由菜、入るぞー」
 できるだけおちゃらけたような口調で言う。
 いつものとおりだと思いたくて。
 病院で見る由菜はあまり好きじゃない。どこかに消えてしまいそうで。
 真っ白な部屋に吸い込まれそうで。儚く消えてもわからなそうで。
 それだったら狭くてもうちにいてくれたほうが俺は良い。
 ああ、違う。こんなこと思いたくなんてないのに。由菜が消えるとかそういうこと考えたくもないのに。
「お兄ちゃん。ごめんなさい」
「まったく、ちゃんと辛くなったら連絡しろって。何のために携帯持ってんだかわかんないじゃん」
 うつむき加減に謝る由菜を直視できなくて、俺はちょっと明るくからかうようにそういう。
「だって……お兄ちゃんそわそわして出て行ったからデートかなって……」
「それでも一応連絡して欲しかったなー。急に病院からきて、もうドキドキしちゃったよ」
 なんでもないことのようにいう。これがたいしたことがないと思い込むために。
 愛しい妹。それはそれは愛しくて。
 俺も父さんも由菜がいなくなったら狂うくらい愛しくて。
 だけど、一番怖いのはそれじゃないんだ。
 怖いのは、自分自身なんだよ由菜。
 だからいなくなったら駄目だ。
 お願い、神様。俺はどうなっても良いから、俺の命なんて由菜にあげても良いから。
 由菜の代わりに何でも差し出すから。
 お願い、由菜を父さんから奪わないで。
 俺がその代わりになれれば良いのに。
 俺がいなくても父さんは由菜がいれば生きていける。だけど、由菜を失ったらきっと父さんは生きていけない。
 母さんに似ている由菜を通して、きっと父さんは愛しい人を二度失う悲しみを覚えるから。
 いなくなったらだめだ。
「着替えとかはどうする?」
「あ、あのね。弓ちゃんが取りにいってくれるって言うから」
「ああ、弓子さんが」
 弓子さんは俺の従姉妹に当たる女性だ。といってもずいぶん年が離れているけど。
 ほら、着替えとかって男の俺が勝手に判断して持ってきちゃいけない気がするし。
 だから弓子さんがいてくれると便利だな……ってここで便利さを感じちゃう俺って結構薄情なんだけど。
 でも、弓子さんは優しい。自分にもまだ目を話せない子供がいるのに何かと気を使ってくれる。
 きっと弓子さんがいなきゃ俺達はもっと大変だっただろうから。
「じゃあ、何か欲しいものは? 何か買ってくるけど?」
「えっと、じゃあ本が欲しいかな? ほら、ここって娯楽が少ないし」
 何か欲しいものをといったとき、由菜は必ず何かを頼もうとしてくれる。
 何もしてやれないと思っている俺のことを察してくれているんだろう。
 優しい申し出に俺は笑う。
 笑わなきゃ、笑わなきゃ笑わなきゃ。
「そっか。じゃあ、面白そうな奴かってきてやるよ」
「本を読まないお兄ちゃんが?」
「ああ、桑田とかは絶対面白いの知ってるから」
「じゃあ、楽しみにしてるね」
 入院したときの俺達の会話はいつもよりハイ。
 じゃないと俺達は悩みの迷宮に閉じ込められるような気がするから。
 苦しさとか、そういうことを考えないようにいつもよりも口数が多くなる。
 由菜もいつも以上に話して、看護士さんたちはにぎやかねと笑う。
 これで良いんだ。死の影なんて、衰弱の陰なんて要らない。
 ひたひたとどこから来るのか分からない死神の足音。
 いつくるかなんて分からない。もしかしたら成人しても老人になっても来ないかもしれない。
 だけど、ここにくるとなぜか近づいている気がするんだ。
 それを紛らわすために俺達は笑う。
 怯えた自分を見つけないために。相手の中に怯えを見つけないために。
「あ、そろそろ帰ったほうが良いよ。面会時間終わりだから」
「……ああ、そうだな」
 この病院は完全看護だから泊まることはできない。
 でもそれでよかったと思う。じゃなかったらどちらでもなくぼろが出そうだ。
 ずっとここにいればどちらかが泣いてしまいそうな気がする。
 だから病院はきらいなんだ。
「じゃあ、また明日来るから」
「うん」
 笑ってそう見送ってくれる由菜。
 いつだっただろう、その後になく由菜に気づいたのは。
 それが悔しくて、どうにもできなくて俺も泣いた。
 だけど、……。
「どうだったの?」
 志津子さんは待っててくれた。だけど今は会いたくなかったよ。
 泣きそうな情けない俺。
 恐ろしさに負けそうな俺。
 だけど誰かに見られたら認めなきゃならない気がするから。
 俺は由菜のときと同じように笑って見せるよ。
「んー、いつものことだから大丈夫だって。命に別状はないみたいだしさ」
 笑い話のようにいってやれ。慣れているというように言ってやれ。
 貴方は気づかなくて良いんだ。俺のわがままに付き合ってくれるだけで満足なんだ。
 貴方が知るべきものじゃないから。俺達の問題だから。
 だから、……そんな悲しい顔をしないで。
「ごめんね、せっかく美術館に行こうと思ったのにさー」
 笑って見せてよ。お願いだから。こんな顔を見たくてあってるわけじゃないんだから。
 貴方の前だとすがりつきたくなる俺を引き離してよ。
 貴方の前だと懺悔したくなるのは何でだろう。知らせたくないと思うのに、知ってほしくないと思うのに。
 許しを請いたくなるのは何でだろう。
 ただ悲しげに見ないで。貴方に許されてもどうにもなんないことなのに、どうにかなるなんて馬鹿げたこと思ってしまうから。
「あ、そろそろ帰らなきゃね。なんかもう出かける気にもなんないでしょ? あ、でも送らせて……」
「強吾君」
「志津子さん?」
 話をさえぎられるのは初めてだった。志津子さんはちゃんと話を聞く人だからいつでもちゃんと最後まで聞いてくれた。
 なのになんで……。
「笑いたくないときに笑って見せるのはやめなさい。付き合いの短い私だって分かるのに由菜ちゃんに分からないわけないでしょう?」
 何でそんなこというんだろう。駄目だよ、志津子さん。今そんなことを言ったらすがってしまいそうになる。
 こういうときばかりだまされたふりをしてくれないんだね。
 それがきっと貴方の優しさなんだろう。
 だけど、してほしかったよ。すがりつきたくなるから、由菜じゃなくて貴方に。
 苦しんでいるのは由菜なのに。俺ががんばらなくちゃいけないのに。
 貴方を支えにしてしまいそうな気がする。
「無理して笑ってくれても苦しいだけよ」
 ああ、貴方は何でこんなに……正しいんだろう。


 こんなことだれにもいえないよ。貴方にだって隠し通したい。
 だけど言ってしまいそうだ。貴方にならすがって良いと心が叫びそう。
 支えになんてしたくないのに。貴方が必要になってしまう。
 一人で立っていられなくなってしまう。誰かの手を借りてたっているのは嫌なのに。
 どうしてだろう、貴方なら支えてくれるのかもしれないなんて思ってしまう――。
 
BACK  TOP  NEXT


inserted by FC2 system