どうしようもなく震える声。
 ああ、あれは偶然ではなかったのかもしれない。
 好きになった理由なんてないと思ってた。
 ただ、本能的にこの人を選んだんだと思ってた。
 だけど、きっとそれは違って。
 きっと同じようなにおいに誘われて、この人を選んだんだと思う。
 この人ならば救ってくれるのかもしれないと浅ましい期待をかけて。
 だけど、それでもこれを恋だと信じるのは。
 本物だからだと信じてるから――。


 どうしてそんなふうに正しくいられるんだろう。
 俺の知っているこの人はいつも正しくて、凛と背筋を伸ばしてる。
 それがひどく心地よかった。美しいと思った。
「……うちに来る?」
 そう聞いてくれる貴方はきっと俺のことを本当に男扱いしてないよね。
 そんな些細なことでささくれる心。
 無理だよ、もう笑っていられない気がする。
「えー、志津子さん気のある男を家に上げちゃ駄目だよー。俺心配になっちゃう」
 おどけて見せても志津子さんは硬い表情のまんまだ。
「……強吾君、あんまり無理をしないほうが良いわ。今、一人の家に帰ろうとする貴方のほうが私は心配」
 本当に心配されてる瞳。
 駄目だ、心の弱ってる時は回りに張り巡らせる壁が薄くなる。
 ああ、なんてこの人は。
「さあ、いきましょう。タクシーでも何でも呼べば良いわ」
 今、どんな顔をしているのだろう。俺は、そんなに心配されるような顔をしているのだろうか。
 俺はただうつむいて、志津子さんについていくことしかできない。
 志津子さんはただ黙って、俺をタクシーにつめて運転手さんに道順を説明した。
 車の中は運転手さんが首をひねるほど静寂に包まれていて。だけどそれに居心地の悪さをかんじる暇なんてなかった。


「えっと、ミルクティーは大丈夫よね?」
 そういわれて差し出されたミルクティー。
 そのほわほわとした暖かさに泣けてくる。
 ああ、本気で弱ってるなー。そんなもので泣けてきそうなんてホント俺情けない。
「ありがとう……ございます」
 もう笑顔は浮かべられなかった。笑顔力が切れたって感じ?
 そんな余裕、もう微塵もなくて。
 ああ、駄目だ。本当に涙があふれてきた。
 まるで迷子で意地張っている子供のようだな。
 冷静な部分でそう思う。
 唇をかみ締めて泣かないようにとする俺は、きっとそこら辺の幼稚園児と同じだ。
 どのくらい時間がたったのか分からない。すっと動かされる志津子さんの腕。
 その白さに目が奪われる。やわらかそうだよなー。
 後ろから回される腕に不謹慎ながらもドキッとした。
「し、志津子さん……?」
 ドキドキと高鳴る胸の音。いや、単純だとは思うけどそういうびっくりに反応しないほど俺の心臓弱っちゃいない。
 うわ、顔が真っ赤に染まっているような気がする。
「志津子さん、ちょっとどうしたの? だめだよー、そんなに無防備なことやっちゃ……」
「貴方のことは信頼してるから」
 ……えっと、それはどういう……。いや、多分襲わないってことを信頼しているんだろうけど、そこでそういう信頼されても。今の俺は落ち込んでるから理性が弱ってるっていうか。
 たじたじになる俺を見て、志津子さんはクスリと笑った。
「それにこの状態じゃ、貴方の表情が見えないから安心して良いわよ」


 ……ああ、そうか。この人は……。

 泣いてもいいって言ってくれてるの?


 この体勢でも泣いてるのくらいは分かるのにね。
 それでもそれに甘えたくなってしまうよ。
 泣き顔を見られるのはいやだけど、一人にはなりたくない。そんなわがままな俺。
 でもそんな願いを知ってるかのように、志津子さんは接してくれる。
 それがひどく心地よかった。
 俺は薄いクリーム色の天井を見ながら話し始めた。それはまるで神父の前でする懺悔のように。
「……志津子さん、俺の母さんは俺が2歳のころ、死んだんだ」
「……」
 志津子さんは慰めの言葉も発せず、ただ先を促した。
 ただ背中にある体温は、どこか母さんを思い出した。顔も写真でしか思い出せないのに。
「母さんは由菜を産んで死んだんだってみんなが言う。だから大切な娘なんだよ、って。だけど、由菜が生まれたとき体が弱いのも引き継いだみたいで」
 俺はこんなに丈夫なのに、何で由菜だけにって思ったことは何度もある。
 そのたびに悔しくて。そのたびに情けなくて。
 ただ心配なんてかけないように笑っているだけで精一杯で。
「由菜は生まれたとき成人できないって医者に言われてて、今はそんなことないって言われるんだけど。強くなればおばあさんになるまで生きていけるっていうんだけど。やっぱり結構不安で」
 強くなれなかったら?
 今でも強くなれていないのに。このままだったら由菜はどうなるの?
 どんどん強まる不安を消す方法なんて知らなくて。
 ただ、笑ってみない振りして。どんどん先走る思考を切断する方法は知っていて。
 これ以上膨らまないようにと願い続けて。
 相手に悟られないようにごまかす手段を身に着けた。
「……由菜がいなくなったらどうしよう……俺らはそんなのに耐えられないのに……神様は由菜まで奪ってくの……?」
 ずっとずっと不思議に思っていた。何で母さんは死ななきゃならないんだろうって。
 何で父さんはこんなに切なそうに母さんの写真を見ているんだろうって。
 愛した人を抱きしめられない辛さなんて俺にはわからない。
 だけど、由菜を失ったらきっとその気持ちが分かるんだろう。
「たった一人の妹なのに……俺が由菜を守るって……だけど守り方なんて分からない……苦しんでるのは由菜なのに……なにもできない自分が……嫌いだ……」
 流れる涙を止めるすべはなくて。ぬぐう気にもならなくて。
 ただ天井がぼやけるのを見る。
 慰めてほしいとは思わない。ただ、この暖かな体温が癒してくれることをしった。
「でも……一番嫌いなのは……もしかしたら母さんのように忘れてしまうかもと思ってる俺だ」
 もし母さんのようにいつか忘れてしまったら。
 こんなに愛しているのに、写真でしか由菜を思い出せないようになってしまったら。
 そうならないなんて俺にはいえない。だって、俺は母さんを忘れたから。
 由菜の声も、姿も忘れてしまったら。由菜がしぬよりもそっちのほうが怖い。
「……奪わないで……俺に由菜のことを忘れさせないで……思い出なんて綺麗な言葉で収めさせないで……何でもするから……俺の命だって何だってあげるから……」
 体温も何もかも覚えてるにはまだ時間が足りないよ。
「……っ」
 嗚咽が漏れる。何も見たくなくて目を閉じた。真っ暗な闇。
 俺が守るよと無邪気にいっていた幼いころ。死なんて感覚はまったく分からなかった。
 だけど唐突に訪れる死の意味に俺は恐れをなした。
 何もかも簡単に奪われるのだと知ったとき、恐怖を覚えた。
 そんなものが妹の背中にはいつも顔を覗かせていて。
 ただ、それを追い払う力は俺にはなくて。
 どうしようもない不安も焦燥も消え去らなくて。
 大丈夫だと言い聞かせる自分。
 だけどそうとは限らないと思っている自分。
 どちらも、俺自身の言葉なのだと。
「もう、いいわよ」
 優しい腕にかすかに力が込められる。
 なんて優しい腕をしてるんだろう。
「強吾君、由菜ちゃんにとって貴方はかけがいのない人なのよ」
 なんて優しい声をしてるんだろう。
「だから責めないで。自分を薄情だなんて、何の力もないだなんて思わないで」
 なんて優しい言葉なんだろう。
「貴方は優しいお兄さんじゃない」
 なんて、こんなに涙があふれてくるんだろう。

 ――神様……

「志津子さん、泣かないで」
 俺の肩に涙が当たるよ。
 俺のために、由菜のために泣く貴方はきっと綺麗なんだろう。
 暖かい貴方は本当に女神のようで。
 ああ、貴方に許された――。
 それがどんなに尊いことか貴方には分かるのかな。
 どんなに、このことが俺の救いになってるか。
「泣かないで、志津子さん。泣かせるために話したんじゃないんだから」
 でも、貴方の涙で許されるよりも笑ってくれていたほうが嬉しいんだ。
 貴方の涙はとても綺麗だと思うけど、俺は貴方の笑っている顔のほうがはるかに美しいと思う。
 慈愛を込めて笑ってくれたら、気高く笑顔を見せてくれたら。
 きっとすべてが俺を祝福するよりも嬉しい。
 振り向くと、ただ静かに涙を流す貴方がいた。
 ああ、貴方はきっと俺をその涙で殺しも生かしもできるんだね。
 そして困っている人のために泣ける人なんだね。
 俺は貴方にこんなにも救われる。傍にいるだけでこんなにも癒される。
 すべてがうまくいくような気がしてくる。

 ――だけど、貴方は誰が救うの?

 貴方はいつも切なそうにその指輪を眺めてる。
 もしかしたら、貴方も俺と同じなのかもしれないね。
 失う恐怖から、失った恐怖から怯えている者たち。
 貴方は俺に手を差し伸べてくれたのに、俺の手は貴方まで届かない。
 なのに、涙まで流してくれてるの?
 救えない俺なのに。何も返せない俺なのに。
 そっと手を伸ばす。
 ごめんね、貴方の望む手はきっとこの手じゃないんだろうけど。
 俺にはこの手しかないから。
 その手で涙をぬぐうことしかできないから。
 大雑把な俺だけど、このときばかりは身長に丁寧に涙をぬぐった。
 志津子さんの頬は暖かくて、だけどちょっとだけ冷たかった。
 きっと涙を流したせいだね。
 ごめんね、志津子さん。
 この細い手は俺を救ってくれたのに。俺を許してくれたのに。
 ただこんなことしかできない。
 ねえ、貴方の抱える傷は俺には見えないけれど。
 その苦しみを理解できれば良いって言うのは傲慢なのかな。
 せめてその苦しみを理解したいと思うのは、少しでも貴方を楽にしてあげたいと思うのは傲慢なのかな。
 俺じゃ苦しいかどうかなんてわかんないから。
 俺の痛みはあまりに苦しくて、だから貴方の痛みも苦しいもんなんだと思う。
 ただ、それを交わせない俺達は――誰かの救いを待っていた。

 ねえ、俺がいつか救えるものですか?
 貴方からその痛みから来る苦しさを取り除くことができますか――?
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